かもめダイアリー

画:植木まみすけ http://mm9.hatenablog.com/

第0話「春は猫と共に去りぬ」

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 晴は言った。
「ああ、あれはシロだよ」
 遊莉にも訊いた。
「シロよ」
 まゆはこう言った。
「私はズーイって呼んでるよ。ズーイって月って意味の言葉だって聞いて。何語か忘れたけど」
 美々子はにっこり笑って答えた。
「真っ白だから、しろちゃん!」
 ……何の話かと言えば、猫の話である。かもめ寮によく出没する大きな白猫。その猫を何と呼ぶかをみんなに訊いてみたらこんな結果になってしまい、柚葉はその白猫の知名度の高さに驚くと同時に、野良猫がいかにテキトーに名前がつけられてしまうかを思い知って白猫につくづく同情した。
 鹿児島県を代表する私立学校、海央館。その付属高校で県内一のお嬢様高校と名高いのが、この海央館女子高校である。
 そしてこの海央館女子に通う柚葉や晴、遊莉、まゆ、美々子の五人が寝起きしている校外学生寮、「かもめ寮」には猫が何匹か出入りしている。寮母の市子さんをはじめ、ヒデコばーちゃんや他のスタッフさんもみんな猫が嫌いなので誰も餌やりはしないし、そもそも寮の規則でペットは禁止だ。
 しかし、猫は来る。なぜなら、女子高生は猫に餌付けはしないものの、「おやつをあげる」ぐらいのことはしてしまうからだ。
 たとえば学校帰り、コンビニで買ったからあげをみんなで食べる。女子高生は食い意地が張っているのでからあげの袋にはもうさっき道に落としたからあげ一つしか残っていない。さすがにそれはやめろだの、五秒ルールだなんだのとみんなでもめていると、寮の前の植え込みからじっと猫が見つめている。女子高生と目が合う。なるほど、猫にあげればいいんだ――そういうわけでうまいこと生き延びてきたのが、このかもめ寮の猫たちである。
 もう一度言うが女子高生は食い意地が張っている。よって、わざわざ猫に自分のおやつをあげるような子はいない。あくまで「どうしても食べられなくなった」ものを処分してもらうのである。なので猫も猫であまり女子高生に期待していない。猫にとってはかもめ寮は食事拠点のひとつでしかなく、普段は色んな場所を渡り歩いているようだった。ただ、立派な屋根と庭があるので昼寝や雨宿り、集会に使われることがままある。そのたびに市子さんたちは嫌な顔をしているのだった。
 女子高生に似て、猫たちも独立志向で人間に依存しない。ふらりと寮にやってきてはふらりといなくなる。寮生の中には猫たちの存在にすら気づかない者も多い。だが、それでいいのだ。万一好奇心旺盛な女子高生に捕まりでもしたら、一躍寮のアイドルに祭り上げられ、猫を飼おうと生徒総会で真面目に議論されることになり、可決の末に毎日女子高生にキャーキャー言われながらいじくり倒されぐったりなのだから。ゆるい繋がりだからこそここの猫たちは野良猫人生(ニャン生?)をのびのびと謳歌できるのだ。
 柚葉が例の白猫――シロ、ズーイ、またはしろちゃん――と初めて遭遇したのは柚葉がかもめ寮にやってきてすぐのことだった。

 四月。柚葉は新生活の荒波に揉まれていた。慣れない土地。母親が起こしに来ない朝。みんなで囲む食事。新しくできた友達――あまりに刺激が強かった。
 本当は賑やかな環境が好きで寂しがり屋な柚葉だが、もともと一人っ子だということもあり、少しは一人になる時間がないと落ち着かないという一面もあった。修学旅行なんかも実は苦手で、中学時代は相部屋で寝るストレスでじんましんが出たこともあった。
 だから柚葉にとっては一人で個室にこもってぼーっとすることも大事な時間だった。例えばトイレの個室。誰もいない浴場。閉めきった部屋、など。肩の力がふっと抜けて自分がリセットされるような感覚が柚葉は好きだった。
 そんな夜、柚葉は二段ベッドの上で本を読んでいた。午後十一時。とっくに消灯時間を過ぎているので柚葉は針金でペンライトをヘッドボードの端にくくりつけ、カーテンを閉めてその灯りでこっそり本を読んでいた。階下では知り合ったばかりのルームメイト、南条晴がすうすう寝息を立てて静かに寝ている。
 読むのは横浜の父親の本棚からくすねてきたリチャード・バックの『かもめのジョナサン』。ラストに向かってだんだん鼻につき始めるキリスト教臭があまり好きではなかったが、表紙と写真が好きなので拝借してきたのだ。自分が暮らす寮の名前が「かもめ寮」と聞いたときから「かもめなんだからジョナサン持っていくか」と目をつけていた代物でもある。
 背中をヘッドボードにもたせかけゆっくりページをめくりながら、寝静まった寮に耳を澄ませる。背後の窓から月明かりが差し込み、部屋の床で庭の梅の枝の影が揺れている。
 しばらくしてさっきから同じページばかり読んでいることに気づいた柚葉は、そろそろ寝ようとペンライトを消した。トイレにも行きたくてベッドから這い出る。そろりそろりと梯子を下り、外のトイレへと向かう。
 トイレから返ってきて部屋のドアを閉めたとき、柚葉はふと何かの気配を感じた。何かいる。
 そっと部屋の中を見回したがなにもない。柚葉は薄気味悪かった。昔からお化けの類いが苦手である。こうした夜の暗がりは特に。
 さぁっ、と風が枝を揺らす音。足元の梅の影が揺れる。
 その中に、明らかに梅ではない何かの影が映り込んでいた。
「……!」
 丸い。大きい何か。幹の根本に居座っている。枝がそこだけ重そうにしなる。
 視線を窓の方に上げる。その影は見間違いではなく、やはり梅の幹にあった。
「……」
 柚葉はしばらくそれを見つめていた。息を吸い、吐く。このままではうまく寝つけそうにない。
 そもそも。幽霊やお化けなんて非科学的なものが、まして実体のないものが肉眼で見えるわけがないのだ。何か物がひっかかったか置いてあるか、どうせそのあたりだ。臆病者の癖にそういうところだけ妙に理屈っぽい柚葉はそう自分を勇気づける。
 そこまでわかればこのまま寝ても大丈夫だろう。幽霊もお化けもない。だがしかし、一度気になった以上これが何なのかこの目で確かめなければ気が済まないというのが柚葉の性分だ。
 柚葉は思い切って窓に手をかけた。鍵を外し、音を立てないよう静かにサッシを引いた。
「……」
 夜中だというのに外は街灯のお陰で思ったより明るかった。梅の枝はこっちに向かって延びている。手を伸ばせば届く距離。そしてその幹にいたのは、まるまる太った大きな白い猫だった。
「……なんだ」
 柚葉は少しほっとした。白猫は黄色い目でじっとこっちを見つめている。警戒しているようだった。
 暗闇の中、しばらく白猫と柚葉はじっと見つめ合っていた。白猫は柚葉が危険かどうか観察していたし、柚葉は白猫に興味があった。動物アレルギー持ちの柚葉にとっては、こんなに近くで生き物を見るのは久しぶりだった。
 まん丸に太った白猫は物怖じすることなくどっしり構えている。しかしまあ、この巨体でどうやってここまで登ってきたんだろう。
 そもそもこの梅の木はいかにも猫が登りやすそうに曲がりくねっていて、さらに近くに塀やフェンスがある。そこから登ってきたんだろうと柚葉は思った。
 ……それにしても。近い。これはさすがに部屋の中に入られそうな距離だ。
 猫がむくりと立ち上がった。いつこっちにジャンプしてくるかわからないので柚葉は慎重に間合いを見極め、そろそろとサッシのフレームに手を伸ばす。猫はじっと柚葉の手元を見つめている。
 えい、と心を決めて柚葉がゆっくり窓を閉め始めると、猫はぷいっとそっぽを向き、そのまま木を下りていった。
 奇妙な緊張感から解放されて一息つく。だが、柚葉はなんとなく思っていた。多分あの猫はあいさつに来たのだと。きっとよそ者の私が他人と違う匂いをしているから。群れない猫は、孤独の匂いがわかるのだ。
「……ゆずはちゃん?」
 ベッドの中から晴が眠そうに言った。カーテンの間からむくりと顔を出す。
「どうしたの?」
「あ、ごめん起こしちゃって」
 柚葉は音がしないように静かに窓の鍵をかけた。
「大丈夫、何でもないよ」
「うん……」
 晴は大人しくベッドに戻っていく。
 柚葉は自分だけの秘密ができたような気がして嬉しかった。

 一年生のうちはこのことを大事に大事に秘密にしていた柚葉だった。お前も一人なら私も一人だと勝手に仲間意識を持って心の中でかわいがっていた。ついには名前をつけてあげようかと思ったが、やめた。「ティファニーで朝食を」のヒロイン、ホリー・ゴライトリーがこう言っている。あの猫はまだ飼われるべき飼い主をみつけていないのだから誰のものでもないし、もちろん私のものでもない。だから名前はない。飼い主は猫である彼自身が決めるのだ。私が名前なんかつけちゃいけない。私たちは飼い主と飼い猫ではなくて個人と個人が一緒に住んでるだけ。たとえ彼が出ていったとしても、私は彼の意思を尊重しなきゃいけない。――ましてやあいつは野良だ、と柚葉は思う。名前なんかつけちゃいけない。つけたら最後、情がわいて卒業の時に寂しくなるんだから……
 そんなことを思いながら春が過ぎた。孤独だ孤独だと卑屈になっていたのば自分だけで、いつもは明るい同室の晴も本当は親と離れて寂しい思いをしていることを知った。ずけずけものを言う遊莉だって悪意があるわけではないし、むしろ意外と繊細なところもあるんだと知った。まゆというちょっと天然な友達もできた。その頃にはあの白猫を寮のまわりでみかけることをほとんどなくなり、柚葉も孤独だのなんだのと思うこともなくなった。一年は吹き飛ぶように過ぎ去り、二年生の春になるとまゆと美々子がかもめ寮に越してきた。その時にはもう白猫の姿を見ることもなかった。柚葉は思った。あいつは孤高の猫なのだ。誰にも迎合しない、自由気ままな猫なんだ、と。

 昼休み。晴、遊莉、まゆと一緒に食堂でご飯を食べていると、不意に晴がこう言った。
「最近さあ、昼休みに中庭でクラスの子が集まってるけど何なんだろうね?」
「さあ。私外出ないし」
 首を傾げる柚葉にまゆが言う。
「みんなで中庭で鬼ごっことか?」
「……」
 そんなのいい歳した女子高生がやるか! と言いかけるがここの女子高生ならやりかねないので何とも言えない。海央館女子は確かに高偏差値のお嬢様校である。まごうことなきお嬢様校である。晴のような会社の社長令嬢や遊莉のような医者の娘はザラで、親が女優やアナウンサーの子、果ては戦国武将の子孫までいたりする、そんな学校だ。しかし、いや、だからこそ世間一般のイメージする「お嬢様」の対極の存在がこの海央館の女子高生なのだ。食堂でケーキバイキングが始まったとなれば階段をダッシュで駆け下りるし、大盛りの唐揚げを平気でぺろりと平らげるし、大口開けて笑うし、雪が降れば全力で巨大な雪だるまをつくりにかかる。無邪気に遊ぶ姿なんかそこらへんの中学生や小学生と大して変わらない。中庭で鬼ごっこしても別に不思議ではない。
 まゆの発言を華麗にスルーして、さっきまでうどんをすすっていた遊莉が言った。
「レイが言ってたけど、最近猫が中庭でごろごろしてるんだって。人馴れしてるみたいで、触っても平気だっていうからみんな触りに行ってるの」
「猫ー?」
 まゆが目をきらきらさせる。
「私大好きなの!」
「無理無理無理!」
 こっちは晴だ。
「生き物だめなんだよ……」
「あんたはビビりすぎよ。たかが猫一匹に」
「一匹なんだ?」
「うん」
 柚葉の問いに遊莉がうなずく。
「でかくておとなしい白猫だって」
 柚葉はまさかと思った。
「……その猫、見に行かない?」
 あら意外、と遊莉が目を丸くする。
「ゆずって動物アレルギーじゃなかった?」
「アレルギーだけど嫌いなわけじゃないもん。あと、見るだけならアレルギーにならないし」
 言い訳にしては悪くないと柚葉は思った。隣の晴がひきつった顔で言う。
「……襲ったりしない?」
「近づきすぎなければ大丈夫よ。ま、あたしもレイから聞いただけだからよく知らないんだけどね」
 猫だ猫だと嬉しそうに走るまゆの後を遊莉と柚葉で追う。えー、と言いつつ、結局は晴もついてきてくれたのだった。

 まだみんなお昼ご飯が食べきらないのか、中庭には二人しかいなかった。
その二人と言うのも、
「あ、美々子に薫」
 柚葉の声に二人が振り返る。
「あれ、真島さん」
 相変わらず美々子のかわいらしいアニメ声にはクラッとくる。隣の薫が穏やかに訊ねた。
「ゆずたちも来たの? 猫さん触りに」
「猫さん……」
 美々子も美々子だが薫も薫で独特だ。まゆが待ちきれずにフライングする。
「猫ちゃんこの子かにゃ!?」
「ねー、まゆが変なスイッチ入ったんだけどー」
 遊莉の通報に振り返るとそこにいたのは、デレデレのまゆと、べたべた触られてはまんざらでもなさそうな顔をする、忘れもしないあの白猫だった。
「あーーーーーー!!」
「にゃ?」
 まゆが顔を上げる。
「にゃ? じゃなあああい! その猫に触るなあほう! その子は気高い生き物なんじゃい!」
 シッシッ! とまゆを手で追い払う。
「何よう、柚葉だって触りたいって言うから来たんじゃないの?」
 ぶー、と頬を膨らませるまゆに柚葉はまくし立てた。
「いーい? この子は孤高の猫! あたしが一年の時に――」
「何だ、シロじゃん」
 遊莉が言った。
「なんだ、この子シロじゃん。かもめ寮によく出入りしてる」
「あれ? やっぱり?」
「同じ猫だったんだー」
 今度はまゆと晴が口々に言う。
「……何が、どういう……」
 一人呆然とする柚葉の足元を白猫が通り過ぎ、とてとてと美々子の元へ。美々子がしゃがみこんで撫でた。
「みんなしろちゃんのこと知ってるんだね?」
 その猫はお腹を美々子に撫でられるとすぐにごろにゃんとひっくり返ってお腹を見せた。
 こうして柚葉の白猫は孤高の猫でも何でもなく、みんなの白猫だったことが発覚した。

「つまりは、みんな同じ猫のことを知ってたということですね?」
 薫が言う。
「佐々木さんと晴ちゃんはシロって呼んでて、明石さんはズーイ、美々子ちゃんはしろちゃんって呼んでたと。そういうわけですね?」
 うなずく一同。
「まさか同じ猫を別々に見かけてたとは思わなかったね」
 まゆが一人で納得する。一方柚葉は渋い顔。孤独を愛する野良猫と思っていたら、幻想玉砕である。そのシロもといズーイもといしろちゃんは、よほど気に入ったのか美々子の膝枕から動こうとしない。だらしない顔でごろにゃんしたままである。ついに柚葉がキレた。
「美々子がかわいいからってホイホイついてってだらしなく鼻の下伸ばして、ちやほやしてくれるからって毎日女子高に現れてはアイドルに成り下がるとは、貴様には野良猫の矜持というものは無いのかー! て言うか! 美々子の膝枕とかどんな男子がお金を積もうとも私がどんなに美々子に頼もうとも手に入れられないものを猫の分際で無料で手に入れるとかずるすぎるんだよっ!」
「私別にかわいくないし」
「何一人でキレてんのよ猫に。そんなに美々子の膝枕やってもらいたいの? へんたーい」
 間髪入れず飛んでくる美々子と遊莉のツッコミ。まゆが猫をつつきながらぼやく。
「まー、美々子ちゃんの膝枕、やってもらいたい男子はいっぱいいるよね。一回五百円ならかなり稼げると思うなぁ」
 美々子をはじめとする全員がドン引きしているのにも気づかず、まゆは猫を撫で続けていた。猫は我関せずといったふうに眠たげに大あくびする。
「……ま、あんたも残念だったわね。孤独を分かち合えると思ったんだって? あっはっは」
「うるさいなー、もー! 若気の至りだよ!」
 そんなことまで遊莉に吐かされた柚葉である。こいつの方がよっぽど猫らしい、と柚葉は思った。
「ねー、シロひっかいたりしない?」
「ううん、大丈夫だよ。晴ちゃんも撫でる?」
「やめとく……」
 晴は美々子と猫をつっつく薫とまゆの後ろからおっかなびっくり眺めている。
「平和だねぇ」
 薫が言った。薫の声だとますますのんびり「平和」というものを感じる気がする。
 予鈴のチャイムが鳴って、柚葉たちは慌てて走り出した。

 かもめ寮の白猫は寮生以外の女子高生にも知られていた。どうやらあの猫はこのあたりを仕切るボスらしい。なるほど図体でかいもんな、と柚葉は思う。しかし最近ボスの縄張りを狙う若い猫がいるのだとか。あまり穏やかではない。
 柚葉も何度かその猫を目撃した。なかなかスマートな体格をしたトビ猫で警戒心が強く、人が寄ってくると歯を剥く。そしてボスが留守の間を見計らってはすかさずいつもの睨み付けるような目で町をパトロールしている。野心家な性格が顔に出てるな、と柚葉は思った。
 一方のボス、白猫はどんどんぐうたらなデブ猫になっていった。入学時に出会った時の野性味は見る影もない。しかも最近近所のおばさんに餌付けされたらしく、寮にはたまにしか来なくなった。そうやって半分飼い猫になりつつあるくせに寮に来るとボス風をふかすものだから、まわりの猫もあまりいい気はしなかっただろう。
 二年の冬が来て、柚葉たちも将来のことをぼんやりと考える歳になった。そして春先のむずむずした空気が肌をざわつかせる頃、ついにそれは起きた。
 春。猫にとっては繁殖期であり、最も縄張り争いが激しくなるとき。春眠暁を覚えずなんたらということで春休みの惰眠を貪っていたわけではなく、まだ早朝のことだったので柚葉はぐっすり寝ていたのだが、静かな朝に響く二匹の猫の激しい鳴き声に柚葉は意識を揺り動かされた。
 鳴き声なんてものではない。布を裂くような威嚇の叫び。うなりを上げて飛びかかり、激しく揉み合い、鋭い爪で相手を引っ掻く。音と鳴き声しか聞こえない分余計生々しくわかった。
 どちらかが噛みついた音がして、寮の庭が静かになった。勝負がついたようだ。およそ一分の出来事。あっという間に大きな変革が起こった。敗者は去れ、とばかりに猫の気配が消えていく。
 猫も変わるんだ。私たちが変わっていくのと同じように。柚葉はそんな切なさをおぼろげに思うと、再び深い眠りの中に落ちていった。

 その日からあの白猫を見かけることは二度となかった。その代わり、寮には目付きの鋭いトビ猫が現れるようになった。晴も遊莉もまゆも美々子もそれについて何も言わなかったし、そもそも寮に猫がいることすら忘れていた。名前をつけていたはずのあの白猫については言うまでもない。
 三年生最後の女子高生活を噛み締めながら、柚葉は思う。きっといつかの私が白猫に受け入れられたと感じたように、このトビ猫に受け入れられたと感じる一年生もいるだろう。でもそれは私と同じように感じるのではない。猫の模様が皆違うのと同じく、私の感じたことや記憶や思い出は私だけのものだし、何一つ同じものなどない。そして、みんないつか去っていく。私の中から。私の周りから。
 そんな思い出たちを、ただ去るに任せていいんだろうか。柚葉は去っていく白猫の後ろ姿を思い浮かべる。だって、あの白猫は私にとってはただの白猫じゃなかった。いなくなる前にさよならぐらい言ったってよかった。いつか忘れてしまうにしても、名前ぐらいつけてあげたってよかったのだ。その名前、その言葉一つで色んなものが思い出せるように。
 だから、私の思い出にも形と名前をあげたっていいはずだ。柚葉はそう思った。

 昼休み、柚葉はルーズリーフに黙々と何かを書いていた。隣の席で唐揚げを食べていたまゆが柚葉の手元を覗き込む。
「ゆず、何描いてるの?」
「マンガ」
 柚葉が手慰みにマンガを描くのは珍しいことではなかった。ただ、今日は様子が違った。
「みんなの学校生活描いてみようと思って」
「へええ」
「何、面白そうなことしてんじゃない」
 飲みかけのペットボトル片手に遊莉がやって来た。
「めずらし。ゆずがちゃんとコマ割りしてマンガ描いてる」
「いつもはマンガって言っても単体絵の落書きだったからね」
 柚葉も慣れたもので喋りながらも描く手を止めない。
「遊莉、はじめの一ページ目はそこにあるから読んでいいよ」
「読む読む!」
「ゆず、私もいい?」
「まゆもどうぞ」
 楽しそうにルーズリーフを覗き込む二人の様子を横目ちらりと見て、柚葉は思った。こんな瞬間、もうないんだろうな、と。
 だから、描きとめる。形にすれば、みんなの思い出になるから。忘れたとしても、大事なものだったとわかるから。
「かもめダイアリー?」
 ルーズリーフの余白に書かれた部分を指さし遊莉が言った。
「これってタイトル?」
「とりあえず。いいのが思いつかなかった」
 まゆがそれをじっと見つめて言う。
「かもめ寮から取ったの?」
「うん。かもめ寮のみんなを中心に描こうかなって」
「ねえねえもしかしてさあ!」
 遊莉が嬉しそうにマンガの一コマを指す。
「このキャラあたしのこと?」
「うん」
「そうじゃないかなと思ったんだよねー! 似てるー! で、まゆはこっちでしょ?」
「正解」
「わー! おもしろーい!」
「えっ、ゆず、私もいるの!?」
「あんまり上手くなくて悪かったな……」
 口ではそう言ったが本当は喜んでくれたのが嬉しくて仕方ない柚葉である。
 遊莉もまどかも興奮しっぱなしだった。
「ゆず、これすごい面白いよ!」
 遊莉が言った。
「続き描けたらすぐ見せて!」
「私も読むから!」
 まゆも一緒にうなずいた。
 こうして柚葉の「かもめダイアリー」が始まった。

 春過ぎて、夏。柚葉は一人、部屋の掃除をしていた。
 大学に入って四ヶ月が過ぎた。横浜に帰ってきて五ヶ月。桜島の灰が降ってこないかわりに空気は排ガス臭い。いや、もともとここに住んでいた時はそんなこと思いもしなかったのだが、何だか鼻につく気がする。が、この感じもそろそろ慣れてきた。戻ってきた、と言うべきか。
 換気のために窓を開けた。鹿児島だと灰がサッシに詰まって窓が閉められなくなるので絶対にできない。家の前の道路を外車が飛ばしていった。ハイオクの匂いが幽かにするが仕方ない。
 忙しさにかまけていつの間にか大量に溜まっていた書類。夏のからりとした風に吹かれながら机の上のそれらを分別する。生協加入のチラシ、自動車学校のチラシ、健康診断の予定表、履修案内などなど。書類の山の下になればなるほど昔の書類が出てきて面白い。気分は考古学者である。
 その一番下に分厚いファイルがあった。詰め込みすぎて中身が溢れそうになっている。
 あ、とそのファイルを手に取ろうとした途端、中身が滑って床にぶちまけられた。
 ざーーーーーー。
 ルーズリーフに描かれた、シャーペン描きのマンガ。一番上のページは何度も読まれたせいでシャーペンの字が薄くなっていた。

「かもめダイアリー」

 柚葉はそれを優しく拾い上げた。ぶちまけたルーズリーフを一つずつ拾い、もとの順番通りに重ねていく。拾うたびに「こんなこともあったっけ」と思ったり、笑ったり、泣きそうになっていた。
 柚葉はいつの間にかベッドに腰かけて読みふけっていた。そう遠くない過去が、思い出が、鮮やかに去来する。どの思い出も皆一様にこう言っていた。「大丈夫。みんなここにいるからいつでも会えるよ」。
 外の陽はすでに少し傾きかけていた――

第1話「フライト」につづく

あとがき

 初めての方も初めてでない方も、こんにちは。小松パラと申します。
 この「かもめダイアリー」は以前noteというSNSにて公開していましたが今はそちらのアカウントを閉鎖しこちらのブログに移転いたしました。更新は非常にゆっくりですが、自分の学生時代をぼんやりと思い出しつつまったりと読んでいただけると幸いです。
 さて、私がなぜ「かもめダイアリー」を書こうとしたかですが、それは私の描いていたエッセイマンガがきっかけです。
 この第0話で主人公の柚葉は友人たちのの日常をマンガに描いていましたが、私も同じように友人たちのの日常をマンガに描いていました。「実は私たちの学校生活ってマンガみたいに面白くないか?」とある日突然気がついた私は、高校三年の九月頃からエッセイ代わりの漫画を描き始めました。試しに学校の友人に読ませると大ウケで、そのうち友人たちの間で回し読みされはじめ、通っていた塾の先生たちに見せると「面白い! 続きできたら見せてよ!」と言われ、しまいに学校のOBやOGにまで読まれるようになり、「小松ちゃん、大学行っても続き描いてよ!」と言われるまでになりました。結局、高校卒業と共に私はエッセイマンガからも卒業し、今度は文字でエッセイを書き始めていたのですが。
 しかし、大学に入って半年、どうしてもしっくりこない。普段の生活でも思い出すのは高校の時のことばかり。ちょうど私がネットの世界に一歩を踏み出したのも、その「しっくりこない感」がピークに達したころでした。
私の過ごしてきた日々はいったい何だったんだろう? この気持ちはいったい何なんだろう。
 それが知りたくて、今まで描いていたエッセイマンガをもとに一から小説を書き始めました。
「お嬢様校」と言われながら、その「お嬢様」たちは世間のイメージとはかなり違うということ。
「お嬢様校」と言われてはいるものの私のように「お嬢様」じゃない人はたくさんいるということ。
 そしてみんな一様に、それぞれの悩みを抱えているということ。
 ついでに多くの人々が持っている「女子高」へのイメージをぶっ潰してやりたい。女子高は「百合香る美しき女の園」ではなく、ただの男子校の女子版に過ぎないのだから……そんな思いで書き始めた次第です。
 どこからがフィクションでどこまでがノンフィクションなのか。それは私のみが知るところですが、そこも併せてお楽しみくださいませ。
 それでは「かもめダイアリー」、はじまります。




2016.2/25 小松パラ