かもめダイアリー

画:植木まみすけ http://mm9.hatenablog.com/

第1話「フライト」1

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 真島柚葉は窓におでこをくっつけて、その冷たさに静かに目を閉じた。眼下に広がる雲海と飛行機の翼の白さがまぶたの裏からでも眩しかった。そして、ただの意地だけで鹿児島行きを決めたのを、早くもここで後悔し始めていた。
(でもなあ、私がずっとあそこにいたら……どうなってたんだろう)
 いいや、と柚葉は思考のループを無理矢理断ち切り自分に言い聞かせる。きっと大丈夫だ。いつだってそうだ――そう思うことでしか自分を慰められなかった。
 冷えたおでこをさすりながら、まだ着なれない制服のスカートのポケットをまさぐる。絡まったコードとウォークマンを引っ張り出した。
 大量のタイトルが高速でスクロール画面を滑っていく。その中からようやく目的の一曲を選び出し、再生。これら一連の動作が無意識なのか意識的なのか、柚葉にはわからなかった。
 自分がこの曲を選んだのも、自分がこの学校を選んだのも、全部同じこと。ただそこにあったから選んだだけで、さしたる理由なんてない。柚葉はようやく悟った。そして、なおさら虚しくなった。
 ここでないどこかなら、きっとどこでもよかったのだ。ここから逃げられるならどこだっていい、それだけだったのだ。

***

「えー、ゆず、鹿児島行っちゃうの!?」
「うん、海央館ってとこ」
 後期高校受験も終盤にさしかかってはいるものの、教室の人はまばらだ。窓際の席で柚葉と萌菜はいつものように向かい合ってお弁当を食べていた。
 どうして鹿児島なのよ、と萌菜(もな)に訊かれる前に柚葉は言った。
「自分で生きてく力が身につくと思って」
 萌菜はちょっとばつの悪そうな顔をしてから、すぐに笑顔をつくって「ふうん」と頷いた。
「さっすが、ゆずは言うことが違うねー」
「そうかな」
「そうだよ」
 少し間があってから、萌菜がぽつりと言った。
「……寂しくなるね」
「そうかな」
「そうだよ。あたしは寂しいなぁ。小学校の時からゆずとはずっと一緒だったじゃん? そりゃあ寂しいよ」
 萌菜は口を尖らせてわざとそうはっきり言った。柚葉は萌菜から目をそらした。
「萌菜はみんながいるじゃん。翠ヶ丘高校でしょ?」
「うん、うちらみんなバカばっかだからー」
 あっははー! と笑う萌菜が柚葉には少しだけ羨ましかった。
「鹿児島ってことはさあ、ゆず、あっちで一人暮らしってこと?」
「うん、まあ……寮生活なんだ」
「いいなー、寮とか! ハリー・ポッターみたい!」
「魔法が使えたら完璧だったんだけどね。あと、女子校だしちっちゃい寮だからそんなに面白くはないかも」
「てことは三年間ずーっと鹿児島?」
「うん」
「えーっ、寂しいー!」
 萌菜は唐揚げを頬張ったまま言う。
「あっちに行ってもメールしてね! 夏休みあたしん家遊びに来てね! あっ、時々勉強わかんなくなったら電話するかも、えへへ」
 やれやれ、とブロッコリーをかじる柚葉。
「少しは自分で頑張んなさいよ」
ぶー、とかわいく膨れる萌菜。
「ゆずに教えてもらいたいのー」
「言っとくけど数学だけは無理だからね」
「知ってる。一学期の期末で四十七点」
「こんにゃろー!  いつ見たのよ!」
 スカート翻し教室を逃げる萌菜、箸を片手に追いかける柚葉。教卓の前で柚葉がうっかり箸を落として悲鳴を上げ、二人で顔を見合わせ大笑いした。
 こうした何でもないことがもうすぐ終わってしまうんだとふとしたときに気づいてしまうと、柚葉はそこはかとなく寂しかった。そして、萌菜も不器用な自分に付き合って、なるべく楽しい思い出を作ろうとしてくれている。
 バレてるよ、バカ、と水道で箸を洗いながら柚葉は心の中で呟いた。
「ありがと」
 そして萌菜にこう言った。
「萌菜のそういうとこ大好き」
「そういうとこって?」
 きょとんとする萌菜。くりくりしたその目を見る限り、すっとぼけるどころか本当にわかっていないらしい。
 まあ、それが萌菜のいいところだ。自然体で人に優しくできるのだから。だからこそ萌菜も私とうまく付き合っていけたのだろう。いつも萌菜には感謝していた。多分、これからこれ以上の友達は現れないだろう。
「えー、なんなのゆずー」
「教えてあげない、恥ずかしいから」
「やーん、ゆずってばツンデレかわいいー!」
 くっつかないで、濡れるから! と口では言いつつも、柚葉も屈託なく笑っていた。

***

 三限目が自習になったとわかったとたん、柚葉は一人でふらりと図書室に消えた。それを見届けてから、誰かがこう切り出した。
「真島さんが桜陽高校落ちたって話、マジ?」
 すぐに教室はこの話題でもちきりになる。ゴシップというのはひそひそとさざ波のように拡散していくものだ。この小さな中学校ではなおのこと。柚葉が全国一位の偏差値を誇る私立桜陽高校を目指していたのは周知の事実だった。
「うわー、あそこムズいもんなぁ。真島がダメならうちの学校みんなだめだな」
「いや、二組の小柴さんが通ったって」
 小柴というのは柚葉と幼馴染みの女子で、何かと柚葉をライバル視しては張り合おうとしていた。その嫉妬深さは有名で、柚葉より少しでも自分をよく見せようと大袈裟に話をする癖があった。だから柚葉が桜陽高校を目指しているらしいと噂になったとたん小柴も桜陽高校を目指すと言い始め、クラスメイトたちは口では二人を応援しつつも呆れ返ったのだった。
「えー、嘘だろ。どーせ小柴のことだから自慢してみたいだけじゃねえの?」
「いや、マジだって。ツイッターに合格通知の写メ上げてたんだよ」
「えー!?」
「小柴のやつ今ご機嫌で吹聴してるぞ」
「……あ、出た! これじゃん?」
 誰かのスマホが手から手へとまわっていく。ざわめき出す教室。
「うっそ……小柴ちゃんが受かって真島さんが落ちるとか……」
「そういや真島プレッシャーに弱そうだったよな」
「学年一位が五位に追い落とされるなんて」
 ツイッターも手伝って、一気に写真が拡散されていく。
「……真島も行く気満々だったからな。辛いな」
「それそれ。小柴も結構言ってたが、真島も桜陽目指してますって公言してたからな。小柴が言うのはほら吹いてるようにしか聞こえなかったけどさ、真島なら行けるんじゃねえのってみんな思ってたし」
「だよね。真島が言うと確かに自慢とかイヤミではあるんだけど、真島ならできるし仕方ないって思うよな。いやあ、にしても小柴も自重しねえな。まだ受験終わってないやつもいるのに」
「真島さん今めちゃめちゃ辛いよ。桜陽一直線だったし、プライド高いから」
「あいつどうなるんだろ。何か聞いてないのか?」
 自然と視線が萌菜に集まってくる。その空気に耐えきれず萌菜は諦めて口を開いた。
「実は……ゆず、鹿児島行くらしいよ」
「はあ!?」
「マジか!?」
 唖然とする教室。
「……めちゃくちゃへこんでるな。あいつ大丈夫か」
「やけくそじゃねえか。ぜってー鬱入ってるぞ。どこ高だよそれ?」
「なんとか館とか、よくわかんないけどとりあえず聞いたとこないとこだった」
「今ググるから。えーと……」
「寮があるって。女子校だって」
「鹿児島……女子校……これか? 海央館女子高校」
「そう、それそれ!」
「偏差値は、っと……もうちょい待ってて」
 不意に誰かが声を上げた。
「おい、海央館女子高校って聞いたことあるぞ。とんでもねえとこだ」
「え、そうなの?」
「超絶お嬢様校で寄付金がすげえ。卒業生はだいたい社長の娘とか芸能人とか、そんなのばっかで政治家になるやつもいる」
「そんなとこに真島さん行くの?  意外、そういうの嫌いだと思ってたのに。むしろ小柴ちゃんの方が好きそう」
 数々のネットゴシップをかき分けようやく全国偏差値一覧サイトに辿り着く。
「出たぞ偏差値……うえっ、六十七!? 全国二位!?」
「さすが真島さん……」
「よっぽど悔しかったんだな」
 根性というか執念というか。いや、あいつは逃げたんだ、小柴に負けたのが耐えられなくて。亡命だ亡命。色んなことが口にされツイートされ拡散されていく中、萌菜は呟いた。
「……桜陽とか全国一位とかこだわんなくてもさ、もっと――」
 廊下の窓に柚葉のポニーテールが揺れるのが見えて、教室の会話が一瞬フリーズした。重たいドアが開き片手に文庫本を持った柚葉が帰ってくる。ピリピリした空気をまとったまま席に直行、着席。
 そして、何食わぬ顔でまた日常は回り出す。

***

 地獄耳って損だ、と柚葉は帰り道ひとりでため息をつく。みんなの会話も全部聞こえていた。聞きたくないのに拾ってしまうこの耳、どうにもならない。
 亡命。確かにそれは当たりだ。大当たり。桜陽に行くんだと言った手前、みんなの視線に耐えきる自信なんてさらさらなかった。でも、それを悟られたら負けだと思った。
 初めからそんなこと言わずにひとりでひっそり頑張ればよかったのに。そこをぺらぺら言って天狗になっていた私もバカだから自業自得なんだけど、と柚葉は自戒しつつもやはりこの空気に耐えるのは無理だと思った。ポケットからウォークマンを取り出しイヤホンを耳に突っ込む。こうすれば何も聞こえない。何も考えなくていい。曲がかかっているその間だけは。
 今日は家にまっすぐ帰るのやめた、と柚葉はいつものバス停を素通りして駅前へと歩き出す。ウォークマンのボリュームを二つ上げた。
 卒業まであと数ヶ月耐えればいい、たったそれだけのことだと思うかもしれないが柚葉にとってはそれだけのことではなかった。
 ――第一志望の桜陽高校に落ちたそのとき、柚葉は頭が真っ白になって何も考えられなかった。掲示板の前できゃあきゃあ泣いて喜ぶ周りの人たち、それを写すテレビカメラ。この人たちと私との間にある合格と不合格という絶対的な溝をまざまざと肌で感じた。みんな死ねばいいとさえ思った。
「――大丈夫か」
 隣に立つ父親の声で見たくもない現実に引き戻された。父親なりに気を遣っているのがわかるからこそ、なおさらその優しさが辛かった。
「これで大丈夫だと思ってんの?」
 泣いたら負けだと思って柚葉は賑やかな学校をあとにした。
 負けたくなかった。何一つ負けたくなかった。
 学校で一番勉強ができたのは間違いなく自分だった。
 私が桜陽高校を受けることはみんな知っていたし、みんな応援してくれていたし、ゆずなら行けるだろうと思ってくれていたのだ。塾だってそうだ。模試の点数も偏差値も上がってきていたし、これならきっと行けると背中を押してくれていた。苦手な数学だって過去三十年分解いた。
 頑張れば報われると、疑いもなく信じていた。
 どんなに踏みにじられたって、努力は才能に勝つし善人は悪人に勝つし市民は革命して自由はファシズムに勝って、私はいい子のはずだった。
 乗り換えの駅ごとにホームから線路を見つめて、それに思い切って飛び込めない自分に嫌気がさした。
 その日の夜。柚葉は誰もいない自分の部屋に大の字に寝転がって、見飽きたはずの天井の模様をひとつひとつなぞった。とりとめのないことが次々と頭の中に浮かんでは通りすぎていく。どうしようもない事実が右から左に流れていく。
「……悔しい……」
 ようやく口にしたら、じわりと涙が出てきた。本当は大声を上げて泣きたかったけれど、そこまで泣けなかった。本当に辛いときは涙だって出ないのだ。
 期待されたらそれに応える、それが私と信じてきた。それが正しいと、他の感情を駆逐してやろうとした。でも、柚葉は確かに感じていた。そこに震える何かを。そんなくだらない倫理観捨てちまえと叫ぶ何かを。それを正義と倫理を大声で振りかざして殺してやったのだ。
 しかし結局それは死んではいなかった。日常の中で静かにくすぶっていた。それにたった今、気づいた。
「――もう、やーめた」
 柚葉は呟いた。
「やめたやめた」
 そしてむくりと起き上がった。
「こんなのやめてやる」
 柚葉は自分に向かってそう宣言した。

***

「ただいまー」
 リビングのドアを開けると母親は台所からちらっと顔を出し、案の定眉をひそめて言った。
「もう七時過ぎてるじゃないの。こんな時間まで何やってたのよ」
「本屋で立ち読みしてた。二冊もいっちゃった。ひゃー、足パンパンだわ」
 鞄をぽいっと床に投げて何食わぬ顔でふくらはぎを揉む柚葉。
「帰るの遅くなるときは電話しなさいってば」
「ごめん、忘れてた」
 これが確信犯なことも母親は薄々わかっていた。ため息つくと同時にオーブンがチン! と鳴る。
「ごはんもうできてるから」
「あれ、おばあちゃんは?」
「さっき薬飲んでもう寝てる」
 柚葉は祖母の部屋の方をちらりと見た。ふすまがぴったり閉じられていて、テレビの音も漏れてこない。今日はもう熟睡中らしい。
 おばあちゃんの風邪が長引いてるの、私のせい? 柚葉の目が一瞬鋭くなるが、母親がグラタン皿を運んできたので柚葉はさりげなく視線をそらした。
 ラップをかけられ冷めていく父親の夕食。テレビのバラエティー番組の笑い声。それをつまらなさそうに見る柚葉。母親との二人っきりの食卓に会話はなく、スプーンのかちゃかちゃいう音だけが無機質に響いていた。
 母親が小声で言った。
「お父さんまだ怒ってるわよ」
 柚葉は何も言わない。母親は根気強く続けた。
「鹿児島に行く前に何か言っといた方がいいわよ」
「……別に、言ったって何も変わらないよ」
「……」
 母親はため息をついただけでそれ以上何も言わなかった。私のせいで少しやつれた、と柚葉はグラタンのエビをすくいながら思う。
 柚葉の家は四人家族だ。父親、母親、祖母、柚葉。祖母は母方の祖母で、10年前に祖父が死んだのを期にこちらで引き取ったのだ。父方の祖父母はまだ健在である。
 祖母は神経質だった。他人に気を遣いすぎてダウンする、そんなタイプだ。さらに不眠症潔癖症のきらいがあり、「タンスから変な臭いがする」と主張して夜中に突然部屋の模様替えを始めたりして三人を困らせた。だが、ここで「もう遅いからやめなよ。明日にしなよ」と言ってはいけない。今日やろうと思ったことができなかった、そしてタンスが臭う、それが気になってストレスになり、それだけで祖母は一睡もできなくなるのだ。
 おばあちゃんのやりたいようにやらせてあげよう、そう母親は諦めて柚葉を諭すが、それが柚葉には我慢できなかった。
「そんなねえ、タンスが臭うって言ったってそりゃ木なんだから臭うでしょうよ。しかもそんなのたかが知れてるしこんなの臭うのうちに入らない。おばあちゃん気にしすぎ」
 その一言がまた祖母のストレスになる。だが柚葉もまた祖母の言動がストレスになっていたのだ。夜中に模様替えをすると言って聞かない祖母。自分が何か言うたびに「ああ、ストレスがたまる」と言う祖母。手が痛い、足が痛い、疲れた、と毎日何回も言う祖母。それに文句を言ってやりたくなるが黙っていなければいけない。言いたいことは山ほどあるのに。
 思春期に足をかけた柚葉にとってそれほど苦痛なことはなかった。受験でささくれ立った心にも限界はあって、時々言い方がきつくなったり喧嘩になったりもしたが、そういうとき祖母はだいたい体調を崩した。原因は言うまでもない。
 よって、反抗期に発散されるべきエネルギーが鬱屈して柚葉の中でたまるようになっていた。攻撃的な性格だと自覚している柚葉だが、さすがに祖母のことは嫌いになれなかった。むしろかわいそうだと思っていた。こうして真島家に居候していることに後ろめたさを感じていること、慢性的な体の不調が続き弱気になっていること、将来もう長くないと悲観的になっていること、四十年も続けてきた美容師の仕事を辞めやりがいを失ったことーー家族だからわかっているのだ、そのぐらいのことは。
 母親が苦労していることももちろんわかっていた。受験に失敗して荒れる自分に手を焼くだけでない。頑固な祖母に我慢し、祖母と柚葉がギスギスすれば間に入り、父親と柚葉が喧嘩すれば調停する。今その四つをまとめて同時に行っている上に、パートで病院の受付をしている母親の苦労を思うと柚葉は申し訳なさで一杯になった。
 心配をかけてはいけない。そう思えば思うほど窒息しそうになる。そんなこと柚葉に言えるわけがなかった。私がいる限り誰も自由になれない。私自身も。それはもっと言えなかった。
 だから私は家を出るんだ。これがもうひとつの理由だった。

つづく