かもめダイアリー

画:植木まみすけ http://mm9.hatenablog.com/

第1話「フライト」3

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 入学金振込締め切りの三日前。ついに父親が動いた。
 夜十時。仕事から帰り一人で冷たくなったハンバーグに食らいつく父親を横目で見ながら部屋へ逃げようとする柚葉に、父親はこう声をかけた。
「自分の将来の責任はお前にしか取れないんだぞ。わかってるのか」
 重い言葉だった。
「本当にいいのか」
「うん」
 振り返って柚葉は久しぶりに父親の目を見た。ものすごい威圧感に負けそうになったが耐える。柚葉にはわかった。心を計られている。だったらなおのこと負けるわけにはいかなかった。
 暫く睨みあった二人だったが、父親の方が先に目をそらした。まさか、と微かな期待が胸に起こる。
 父親は言った。
「成績が悪くてもし関東の推薦取消なんてことになったらその時は、一人で生きていけ」
 柚葉は耳を疑った。
「意味はわかるな」
「は……」
 頭の中で言われたことを組み立て直す。多分、行かせてくれる、のだろう。ただし関東の大学の推薦を得て卒業することが絶対条件。さもなくば、
「勘当、ってこと……?」
 父親はウイスキーグラスをぐいっと傾けた。
「遊びに行かせるんじゃないんだ。そのぐらいはしてもらわないと困る」
「ちょっと待ってよ! 勘当って何それ!」
 ゴン、とグラスの底がテーブルを打つ。父親のぎょろりとした目が柚葉を睨んだ。
「じゃあお前は鹿児島で一人で暮らしていけるって言うんだな? 家を探して、就職して、働いて。全部できるんだな?」
 相変わらず腹の立つ言い方しゃーがってこの、と腹から上がってくる怒りをぐっと呑み込む。そんなことで今までの忍耐と固めてきた決意をフイにするわけにはいかない。
 だが、耐えるだけは主義ではない。口を歪めてやり返す。
「関東の推薦取れって簡単に言うけどさ、未来のこと条件にするのってひどくない?」
「下を見れば限りがない」
 父親の口癖とも言うべきフレーズだった。
「とにかく、お前が帰ってくるにはそれだけが条件だ。あと、あんまりはめを外しすぎるなよ」
 話は以上とばかりに父親は夕刊を広げ始める。柚葉はやや眉間にシワを寄せながら膨れっ面で部屋に帰った。
 ――あんまりはめを外しすぎるなよ。
 柚葉はベッドに入ってからようやく気づいた。これが父なりの心配のしかたなのだ。あそこだけ声が柔らかかったのを、目が少し寂しそうだったのを、今さらになって気がついてしまった。
 不器用すぎて笑えないよ……柚葉は目をぎゅっと閉じて布団にきつくくるまった。

***

 鹿児島に発つ二日前。柚葉は祖母に髪を切ってもらっていた。
「どんな感じで切る?」
「そうだな、いつもおばあちゃんに頼むとおかっぱになっちゃうからなぁ」
 ああでもないこうでもないと二人でぐずぐず言いながら、祖母が節くれだった手でハサミを入れる。濡れた髪が床に敷いた新聞紙の上へぱさぱさ落ちた。
 テーブルの上の柚葉のスマホが震えた。柚葉はそれを取り画面を一瞥すると、ふん、と鼻を鳴らした。
「どうしたの」
「萌菜からメール。『鹿児島行っちゃうとかさみしいー(>_<)』だって。ほっといてよね」
 柚葉は膨れっ面でスマホをテーブルに戻す。
「いいじゃないの。萌菜ちゃんいい友達じゃない」
「そうかな。萌菜は私がいなくても何てこと無いからね。ポーズだよ、ポーズ」
「ゆずは考えすぎ。別れを惜しんでくれる人がいるのはいいことよ」
「どうだか。私結構嫌なヤツだったから。私がもし萌菜なら口ではそう言ってあげるけどそれ以上は何も思わないと思うよ」
 これから始まる新生活を前にして、柚葉はとことんひねくれていた。寂しいなんて素直に言えないからその分毒を吐く。払いきれない劣等感と敗北感。それがわかっていたから祖母も何も言わなかった。
 柚葉がぽつりと呟いた。
「……ホント私ヤなヤツよね、亡命とか」
「ゆず」
 祖母は呆れた。
「自分で選んだんでしょ」
「……そうだけど」
 口ごもる柚葉に祖母は言う。
「おばあちゃんはもう歳だからこれからどうしようとか何も言えないけど、ゆずはこれからどうとでもなるでしょ」
 未来。そのイメージが柚葉の膨らむ不安と不満をぷすりと刺した。
「そうかもしれないけどさ、それって私これからどうなるかわからないってことなんだよ。それって怖くない? 私は一体何なのか。もしかして何者にもなれないんじゃないかとか」
「……おばあちゃんそういう難しい話わかんないや」
 柚葉にまくしたてられると話を切り上げるために祖母がよく使う言葉だった。そういう投げちゃった態度一番ムカつくんだよね、と柚葉はこっそりため息をつく。
 ただ、と祖母は続けた。
「生きることを急ぐ必要はないよ」
 祖母ははっきり柚葉に言った。
「焦らなくていい」
 祖母の乾いた指が柚葉に触れる。劣等感と敗北感が少しだけ融けた。迷っていた背中を初めて誰かに押してもらえた、そんな瞬間。
「……自信がない」
 柚葉は素直に言った。
「自分で選んだことだけど、自信がない」
「じゃあ行くのやめる?」
「……」
「前に進むしかないでしょ」
 はい目つぶってて、と祖母は心なしうつむいていた柚葉の頭をぐっと掴み無理矢理前を向かせる。
 しゃきしゃきと鋭い音を立ててハサミがまぶたのすぐ近くをゆっくり通っていく。最近祖母がよく湯飲みを倒すようになっていたのを柚葉は思い出した。手の痺れがひどいらしく、何もしなくてもかたかた震えているときがある。冷たい刃先が時々顔に触れるたびに柚葉は少しぞっとした。
「あー、手がかなわん」
 そうやってぶつぶつ言うのを聞きながらされるがままになっているのはなかなかスリリングだった。髪型はこうしてほしいと希望は伝えたけれど、多分またおかっぱになってるんじゃないかという不安もある。
「不安だ……」
「新しい環境になれば、きっとまた違ったものも見えてくるんじゃない?」
 妙にずれているようなずれていないような解答。うーん、と柚葉は微妙な笑みでごまかした。
「まあ、何事も経験よね」
 そうおおざっぱに総括して祖母は自分の言葉に一人うなずいた。柚葉も少し考えてから、うん、とうなずき返した。そうだ、間違ったっていいじゃないか。それが怖くとも。
 強くなりたい。それだけだ。
「はい、できたよ」
 そう言うと同時に祖母はさっとタオルを取った。柚葉も鏡を取って出来上がった髪型を見てみる。重たいポニーテールはもうない。さっぱりしたショートカットに少しすいた前髪。やっぱりおかっぱな気がするがワカメちゃんカットにならなかったぶんまだましだと思うことにする。悪くない。
「また伸びたら目に刺さりそう」
 柚葉の前髪を触りながら今さらそんなことを言い始める祖母。
「いいよ、その時は自分で切るから。なんとかなる」
「えー」
「なんとかなるって」
 にへへっ、と鏡の中で笑う柚葉の目はやはり不安そうに揺れていた。

***

 鹿児島空港に着いた。左手には父親に買ってもらったキャリーケース、右手には財布。中には母親から渡されたタクシー代と、祖母からもらった十分すぎるお小遣い。
 ロータリーですぐにタクシーを呼び止め、トランクに荷物を積んで中へ。
「どこまで?」
 運転手ののんびりした鹿児島弁のイントネーションに、柚葉は鋭く答えた。
「海央館女子高校学生寮、かもめ寮までお願いします」
 はいはい、と緩やかに走り出すタクシー、座席の隅で縮こまりながらも眼光だけは鋭い柚葉。
 あの頃の私は孤独と一緒に心中でもするようなやつだったな、と今の柚葉は思った。

第2話「はじめの一歩」につづく