かもめダイアリー

画:植木まみすけ http://mm9.hatenablog.com/

第2話「はじめの一歩」3

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「柚葉ちゃん、柚葉ちゃん」
 下から晴の呼ぶ声で目が覚めた。
「今日一限体育だよ! 大丈夫?」

  柚葉は重い体をなんとか起こした。
「何時……」
「七時半!」
 寝ぼけた頭で逆算する。寮を出るタイムリミットまであと二十分。柚葉は目をこする。
「……ありがと。何で目覚まし鳴らなかったんだろう」
「自分で止めてたよ」
「……アホだわ……」
 柚葉はそろそろとベッドから這い出た。

***

「ゆず! 前!」
 遊莉の声に反応したがやはり遅かった。柚葉の手前でボールが落ちる。ゲームセット。次のチームにコートを譲る。はあ、また負けた……とため息をつく柚葉の肩を遊莉がポンと叩いた。
「ま、しょうがないよ」
「……」
「次行くよ」
 前を歩いていく遊莉の背中を柚葉は鬱々とした気分で眺めていた。慰められた、と思う。それじゃだめだ。できないと意味がない。人に弱味を見せたり慰められたりするなんて恥ずかしい。
 今日も散々だった。そう思う日は何度目だろう、と柚葉は思う。こんなのばっかじゃだめだと思う日は何度目だ。図書室で読んだ本の冊数だけ増えていく日々。だめだ。だめだ。
 「だめだ」ばっかりの日々はもうたくさんなのに。
 受験時代に、正確に言うと受験が終わってからの日々で覚えたことが一つある。簡単に毎日が過ぎていく方法。
 何も考えない。何も思わない。何も感じない。はじめは辛くてもすぐ慣れる。冬眠するように心を眠らせる。春が来るまで。
 ……私の春っていつ?
 そんなことを考えているうちに一日はあっという間に過ぎていく。一日、一週間、二週間、三週間。
「そろそろバレーボールのテストだね……」
 帰り道、晴が言った。遊莉の練習に付き合わされて以来、毎回体育の授業のあとは三人で練習することになっていた。遊莉の指導で晴は上手くなったが、柚葉の方はあまり伸びなかった。遊莉が言う。
「ボールをよく見る、そういうことよ」
「そういうことって……全然わかんないよ」
「落ちてくるところを予測する、そういうこと。なんとなくわかるでしょ?」
 うーん、と唸る柚葉。予測してもいつもずれる。それは柚葉があまりボールに触ったことがないから慣れていないだけなのだが、柚葉は私の何がダメなんだとずっと黙って考えていた。肘は伸ばす、腕は振らない、膝はやわらかく、そして、ボールの落ちてくるところを予測する……頭ではわかっていてもうまくいかないのはなぜ。何度も遊莉に私ばっかり怒られるのはなぜ。
 一人イライラする柚葉をよそに、晴と遊莉は楽しく話している。
「遊莉、そういえばこないだ体操着持って帰ってきてたけど、今日はいいの?」
「……しまった!」
 立ち止まる遊莉。またか、と柚葉は心のなかで舌打ちした。
「晴、カバンーー」
「ちょっと」
 柚葉が間に割って入った。
「そんなの自分でなんとかしなさいよ」
 きょとんとする遊莉。晴は遊莉と柚葉を交互に見た。もうこの際だから言ってやれ、と柚葉はぶちまけた。
「あのね、散々自分の用事に付き合わせて、ふりまわして、私たちはあんたの執事でもカバン持ちでもないのよ? 何様のつもりよ。あんたは『友達だからいいでしょ』って言ったけど、人に頼むときにちょっとは申し訳ないなぁとかそういう気持ちないの?」
 遊莉はポカンとしている。
「……あんた何言ってんの?」
 その一言にカチンときた。
「あんたのそういう無神経さが頭に来るのよ。人をなんとも思わない。あんたの言う『友達』って何なのよ。晴がかわいそうじゃない」
「柚葉ちゃん、私全然大丈夫だしーー」
「大丈夫なわけあるかっ!」
 晴もびっくりして黙った。睨む柚葉、唖然とする遊莉、成り行きを見守る晴。
 しばらくして、遊莉が呟いた。
「……これだから、外部生はわかんないのよねえ」
 そして遊莉は自分のカバンを晴からさっと取ると、学校へと戻っていった。柚葉もきびすを返してまっすぐ寮へと歩いていく。
「え、ちょ、ちょっと!?」
 晴は両方を交互に見てから遊莉の方に「先帰ってるからねー!」と叫んで、慌てて柚葉を追いかけた。

***

 後で追いついてきた晴が言った。
「遊莉に悪気はなかったんだよ、ただ、ちょっと頼もうとしただけで。私だって全然気にしてないし、柚葉ちゃんもそんなに怒らなくていいんだよ?」
 それでも、外部生には外部生なりの正義がある。柚葉はベッドでふて寝しながら思う。
 だいたい、内部生なんて世間知らずの集まりだ。しかも遊莉は初等部からの生粋の海央館育ち。礼を言うことも知らないのも仕方ないのかもね、と柚葉は皮肉っぽく笑う。甘い。甘すぎるぞ。そんなんでこれから生きていけるわけないでしょ。
 ブルジョアに飼われるような私じゃないのだ。私は絶対負けたりしない。なんせ学年一位だった女だ。あんたとは違う。晴のお人好しをいいことにこき使おうだなんて私の正義が許さない。あんたたちの間ではよかったかもしれないが、それはいじめの芽だ。許さない。
 柚葉はとんでもない誤解をしたまま、そのまま寝入ってしまった。

***

 気が立ったまま寝たせいか、柚葉は変な時間に目が覚めた。枕元の目覚まし時計を見ると、そろそろ日付が変わるころだった。
 下から声がする。晴の声だ。
「……うん……うん」
 何かにうなずいている。スピーカー越しに人の声もするからどうやら電話をかけているらしい。かもめ寮での十一時以降の携帯電話の使用は禁止で、十一時までに一階のパソコンブースの隣のボックスに預けるのがここのルールだ。携帯を柚葉と一緒に預けに行ったから、あのあと晴はこっそり一階に戻って携帯を取りに行ったらしい。そんなに大胆な子だったとは、と柚葉は驚いた。
 一体誰と電話してるんだろう。……彼氏? まさか。いや、実はいたりして……と柚葉は耳を澄ませた。
「うん……そうだけど、やっぱり」
 晴が鼻をすすった。泣いていたのだ。あの晴が。
「お母さん」
 柚葉はベッドの中で息を飲んだ。
「やっぱりみんなと一緒じゃないの、寂しいよ、お母さん」
 晴はぐずぐずと鼻をすすりながらずっと泣いていた。
 柚葉は思い出す。入学式のあったその夜。かもめ寮で新入生歓迎会をやったのだ。その時晴は自己紹介のついでに言っていた。自分の家は海央館のある薩摩半島とは反対側、大隅半島にある。だから、通学に時間がかからないように家族みんなを置いてこの寮に来たと。
「大樹ちゃんと勉強してる?」
 大樹というのは晴の弟だ。中学二年生なのにろくに勉強しなくて困る、と笑っていた。
「お父さんもう寝た?」
 晴のお父さんは晴よりももっと明るくておちゃめで面白いことが大好きな人なんだそうだ。
「お母さん元気?」
 晴のお母さんは――晴の寮生活を誰よりも一番心配していたそうだ。
 能天気なんて思ってごめん、悩みがなさそうだなんて言ってごめん、と柚葉は心の中で詫びた。晴も晴なりに悩みがあって、寂しさを抱えているのだ。不安なのは自分だけじゃなかったのだ。それでも「大丈夫!」と言い続けていた晴。もしかするとあれは私のためじゃなくて、自分自身のために言っていたのかもしれない。
 いろんなものが見えてなかったんだ、私。柚葉はベッドの中で思う。きっと晴は明日になったら何事もなかったようにまたニコニコ笑っているだろう。私が気づかないだけで、本当はいろんなところにいろんなサインが落ちていたのかもしれない。晴に限らず、遊莉も、クラスメイトたちにも。
 私が思うよりもっと世界は広いのかもしれない。柚葉ははっとした。

 

つづく