かもめダイアリー

画:植木まみすけ http://mm9.hatenablog.com/

第3話「トップノート」1

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 すれ違ったときに、いい匂いがする、と思った。好きな匂いがする。「この人の匂いが好きだ」、ほとんど本能的にそう思った。
 柚葉と西田の出会いはそういうものだった。

 ***

 入学式の日。各教室の内線電話が鳴った。新入生用のパンフレットや書類が各組ごとにダンボールに入れてあるから、誰か一人事務室前に取りに来てほしいとのこと。たまたまその電話をとったのが柚葉だったので、柚葉はそのまま事務室に向かうことにした。はー、とため息をつきながらだらだらと事務室のある一階へと階段を下っていく柚葉。もうすでに自分の高校生活の方向が決まってしまったような気がした。
 先生に何か頼まれごとをされるのはいつも私。電話を取った瞬間からそれは始まってしまうのだ。誰かに頼めないから自分でやってしまう。先生から「頼りになるしっかり者」だと思われる。次の仕事を頼まれる。頼まれたらやるしかないからまた一人でやっちゃう。そして周りからいつしかこう言われるようになるのだ。「優等生」「点数稼ぎ」。その成れの果てが私、と柚葉は自虐する。
 こっちだってやりたくて優等生やってんじゃないわよ。誰かがやらないと周りが動かないから仕方なくやってるの。柚葉は思う。自分が優等生の器じゃないことぐらいわかってる、でもやらなきゃいけない。だったらはじめから引き受けなければいいし、誰かに上手いこと押しつければいいのだけれど、それは自分の性に合わない。誰かに迷惑かけたり自分の仕事を投げ出すことほど嫌いなものは無いから。そう、だから……全てはあの電話を取った瞬間に決まってしまったのだ。つくづくツイてない。
 事務員からずしりと重いダンボール箱を受け取り、おぼつかない足取りで来た道を引き返す。これで四階まで階段上がらないと行けないのか……と柚葉はがっくりと肩を落とした。もう優等生はやめたかったのに、私何でこんなことしてるんだろう。
 もっと女子高生って自由な生き物だと思ってた。柚葉は思う。小説や映画に出てくるヒロインはだいたい女子高生だ。おしゃれして、恋をして、笑って。私もそんな風に素敵に生きてみたいと思ったけど、いざ「華の女子高生」になってみれば現実はそうじゃない。さして自分がかわいくもないことは鏡を見ればわかるし、「彼氏ほし~い!」なんて言ってる子は頭軽くてチャラいと思うし、散々憧れたところでそもそも私はそういう「ヒロイン」を演じられるような性格じゃなかった。やっぱり私は「優等生」キャラから出られそうにない。
 他のクラスの子たちはまだ教室で遊んでいるのか事務室前には誰も来ない。柚葉一人である。ぬるい、たるんどる! と憮然として、廊下を一人で歩く。
 前からスーツ姿の男が早足にやって来た。入学式前ということもあって忙しいのだろう。ご苦労なこった、と柚葉はすっ、と脇に避ける。相手も少し脇に寄った。
 すれ違う。その瞬間、ふっ、と何かが鼻をくすぐった。人の匂い。
 脳の奥で紫電がはじけた。
「……!」
 はっとして振り返ると、細くて猫背なスーツが事務室の方へとふらふら歩いていた。さっき柚葉にダンボールを渡してくれた事務員に何か頼まれている。
「――さん、椅子は女子高生に任せたんで音響とかマイクのセットをお願いしていいですか」
「わかりました」
 そう言って事務室奥へと消えていくスーツ。顔は見えないし名前も聞き取れなかったが、まだ若そうな人だなと思った。低く掠れたような声がまた妙に耳に残った。
 ……妙に、耳に残った。
 なに、これ? と柚葉は誰もいない廊下で一人、自分の感情の理由に自問自答する。違和感とも嫌悪感とも親近感ともつかない強烈な何かを、すれ違ったあの一瞬で感じてしまったのだ。心のすぐそばを掠めるような、懐かしさすら感じるあの匂い、そして、妙に耳に残るあの声。ありふれたただの人の声のはずなのに気になってしまう。わけのわからない好奇心だけが残った。これは、いったい何なのか――ようやく我に返ったのは立ち止まってしばらくしてからだった。
(……ダメだ、何やってんだバカ)
 柚葉はかぶりを振って、足早にその場を立ち去った。

***

 その人の正体がわかったのは授業が始まってすぐ、初めての数学の授業のことだった。
 予鈴が鳴っても静かにならない教室。ガチャ、とドアが開き、ぬうっと入ってくる「先生」。さっきまでぺちゃくちゃしゃべっていた子たちが慌てて着席する。
(あ、)
 体温が〇.二度ぐらい上がった。
(こいつだ)
 ひょろりとした細い体にやや猫背、右肩下がり。寝癖がついたままみたいなもしゃもしゃ頭で前髪のむこうの目は眠そうだ。真正面から見ると目つきが悪くて、しかし視線は心なしか下を向いている。安物のワイシャツに安物のスーツ。唯一誉められそうなポイントは日焼けしてない真っ白な肌なのだが、それがますますこの風が吹いたら傾きそうなひ弱で儚げな雰囲気に拍車をかけていた。女に生まれていたなら美人だったのに、という残念パターン。
 何よ、と柚葉は憤慨する。何よ、この地味すぎて影が薄いどころか影すらなさそうなネクラは。柚葉は期待していたぶんがっかりした。一体何を期待していたかは当の本人にもわかっていなかったが、なんとなくそんな気分が柚葉にあった。無気力系男子ってやつか? 何そのやる気の無さそうな態度。しかも何でこのルックスで教師なのよ。もしかして生徒の言いなりになっちゃうタイプ? いやそうでもないかと柚葉は口の中でぶつぶつ言っていたが、このあとその予想は大きく裏切られることになる。
 いかにもめんどくさそうに、いやもしかすると神経質の裏返しでそういう態度なのかはわからないが、なんとなく気だるそうに彼は教壇に立つと、これまた気だるそうにボソボソと話し始めた。例の、低く掠れたような声で。
「えーと、初めまして。数学非常勤講師の西田です。字が下手なんでわざわざ名前は書きませんけど」
 とまあ西田は地味な雰囲気のくせに一言目からわりと強烈な個性の持ち主だった。
「よく鹿児島訛りがないと言われますが、それはずっと千葉に住んでたからです。高校から鹿児島の学校で、海央館には大学の理工学部数学科と院とで計九年在籍してます。院では統計の応用みたいなことを専門にやってました」
 大学院にいたのか。なるほどどうりで若い、と柚葉は納得した。話を聞きながら西田の年齢を計算し始める。
「ここで教えるようになってそろそろ二年ぐらいだと思います。いい加減女子高生慣れてきました。なんか……うん。」
 ずっこけた。何が「……うん」なんだってば。
 独特な間合いに教室中があっけにとられているうちに、話は進んでいく。
「で、俺が担当するのが数Aって分野なんだけど、集合から始まって平面図形とか空間立体とか初めはそんなところかな。だいたい中学のおさらいみたいな感じなのが一年生は多いけど、それだけ大事な基礎の部分をやるってことだから」
 おお、真面目。柚葉はこのさりげない話術に内心静かに拍手する。面白いだけで終わらず言うことはちゃんと言う。新人教師には絶対できない芸当であることは言わずもがな、適当で済ませるそこらへんの中年教師よりはずっと腕がいいやと生意気にもそう思った。ツボを押さえるセンスがある。つまり、
(この人めちゃくちゃ頭いい!)
 西田は続けた。
「二年になったら数学取らないって子もいると思うけど、ほんとに数1と数Aは数学の基礎だから大事にしてほしい。たとえ将来文系の学部や仕事になったとしても、このあたりは必ずどこかで使うことになるから。……あ」
 そういえば、と思い出したようにさらりと付け足す。
「あと、西田の数Aのテストがエグいって噂があるらしいけど、真面目に聞いてればちゃんと解けるはずだから頑張って」
 えー!? そんなの聞いてない! と騒ぎだす生徒たち。あのー、あのさー、静かにしてくんない? と何度か言った後で西田は続ける。
「まあさ、寝ちゃうのは仕方ないし俺も別に怒りはしないけどさ。俺の声そんなによく通るわけでもないしむしろ催眠効果でもあるのかってぐらいだけど、みんな授業は聞きそびれてもノートとか誰か取ってるだろ。復習だってやればちゃんと赤点回避できるからさ。わかんなくなったら質問どんどん来ていいし。手助けはするよ、うん」
 ふう、と一息つくと、西田は教卓の教科書に手を伸ばした。
「じゃあそろそろ」
「先生ー」
 一人が手を挙げこう言った。
「彼女いますか」
 ぶっ、とクラス中が噴き出した。あっははははと教室中が笑いに包まれる。これで元気の戻った女子高生たちが矢継ぎ早に質問を浴びせかけた。
「どんな人タイプですか?」
「芸能人で言うならどういう感じですか!?」
「今まで何人ぐらい付き合いましたかー!」
「……」
 西田はあからさまにめんどくさそうな顔をした。うっかり友達にやると関係性に傷がつきそうなぐらいの「嫌な顔」を。
「彼女いるんですかー!? いないんですかー!?」
 ボソッと呟くような西田の返答は、うるさい中でもよく聞こえた。
「……そういうのマジでどうでもいい」
 えっ、と一瞬凍りつく教室。
 気だるげに低音でバッサリと切り捨てた西田は、すでに何事もなかったかのように黒板に向かっている。
「んと、まあ今日は初回だからウォーミングアップってことで気楽に聞いててほしいんだけど。まずは授業に慣れてほしいから、基本のおさらいをやろうか。教科書は五ページだったかな」
 一斉に慌てて教科書とノートをめくる音。真新しいチョークがカツカツと新鮮な音を立てていく。
 柚葉は慌ててシャーペンをノックしながら、その細い背中に百戦錬磨の先生魂を見たような気がして、なるほど若いうちから苦労人なんだなこの人はと静かに西田を労った。


つづく