かもめダイアリー

画:植木まみすけ http://mm9.hatenablog.com/

第3話「トップノート」3

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「毎日偉いね」
  そう言うのは図書室司書の榎だ。最近の柚葉は毎日放課後になると図書室で勉強している。貸出カウンターの向かい、中庭のよく見える、日の当たる窓辺が柚葉の特等席だ。

  入学当初の柚葉は毎日どころか休み時間ごとに図書室に逃げ込んできたのだが、榎はそんな柚葉を干渉するでもなく静かに見守ってくれていた。もともと本好きなこともあって柚葉は榎とあっという間に仲良くなり、今では入ったばかりの新刊はもちろん貸出手続きの面倒な大学の所蔵本も融通して貸出ししてくれるようになった。もはや顔パスである。
 遊莉との喧嘩(?)を境に柚葉が図書室に来る回数は減ったが、やはり柚葉の図書室通いは続いた。
「西田さんの授業、ついてくの精一杯で」
 柚葉が数学の問題集から顔を上げると、貸出カウンターの向こうから榎が意外そうな顔でこちらを見つめていた。 
「難しいってこと?」
「うーん、そうじゃなくて……私の力不足です」
 柚葉ははにかんだ。
「頑張れば誰だってついていけるように西田さんが考えて授業してくれてるのはわかります、でも……私にはちょっと」
 どんな小さなことでもこうして自分の弱点をさらすのが柚葉にはつらかった。自分が「真面目」と思われているのは知っている。自分がそういう外見なことも知っている。だからこそ、自分もそうしなければならないと思う。人の期待を裏切ってがっかりされるのが嫌だから。
 榎が自分のことを真面目な読書好きな文学少女だと過大評価しているのも柚葉は十分気づいていた。自分がクラスになじめないのもばれている。
 そういう自分が嫌いだった。人の期待する枠に合わせようとする自分、枠から出たい自分。どっちに転んでも息苦しいだけで。
 息継ぎするように柚葉は早口に言った。
「もともと数学苦手だったんです。人より遅れてるから、私が一歩進んでも授業もまた一歩先に進んでて、間が埋まんなくて」
「質問しに行けば? きっと教えてくれるから」
「いや、でも……」
 簡単なことじゃないか、とでも言いたげな榎。だがそんなことは、元学年一位のプライドが許さない。
「こんなにダメダメなものを見せても西田さん呆れちゃうと思うから、嫌です」
「そんなことないさ」
「私なら呆れます。数学の初歩の初歩で間違えたり解けなかったりするのは質問以前の問題だから。取り繕った顔のまま内心で馬鹿にされるのが一番嫌です!」
 柚葉の頭の中はあの声たちで埋め尽くされていた。柚葉に気づかれないようひそひそと囁く声たちが。
 真島さん、落ちたんだってさ――
 みんな励ましてくれたり慰めてくれたり、たくさんの言葉をかけてくれた。でも私は知っている。その陰でいろんなことを囁きあっていたことを。ずっと気づかないふりをし続けてたけど、その声も、口調も、みんな私は知ってるんだから。
 あんなにメールするねって言ってくれた萌菜だって、あれから一度もメールをよこさなかった。みんなそんなものだ。
「だからって解けないままずっとそこに立ち止まるのはもっと嫌じゃないか?」
 榎は貸出カウンターに肘をついて柚葉の方に身を乗り出した。唇を噛んだままうつむいて黙る柚葉にラフな口調で言う。
「教師にとって一番嬉しいのは質問されることだよ。真島ちゃん、半学半教って言葉知ってる?」
 柚葉はうつむいたまま首を横に振った。
「生徒は先生から教わるだけじゃない。先生が生徒から教わることもあるってこと。真島ちゃんがつまづいたところで他の誰かが同じようにつまづいてるかもしれない。それがわかるだけでもあいつにとっては大事な勉強になるんだよ」
「……」
 説教臭いメガネめ。そう心の中で毒づいて柚葉は榎なんかいなかったかのように再び問題を解き始めた。私と榎さんの仲がいいって周りは思ってるかもしれないけど、私はあんたのことそんな好きじゃないのよ。チタンフレームのメガネ、カッコつけたワックスヘア、先の尖った流行りの革靴、何よりそのデザインヒゲ。私そういうの嫌いなの。必要以上にけなして柚葉は何とか落ち着こうとした。榎の言うことが正しいとは思ってはいたけれど、心の中でまだ質問に行っていいような私じゃない、と思っていた。
 しかしやはりわからないものはわからない。公式を見ても、解説を見ても、答えをチラ見してもわからない。何でそうなるのか。考えてもわからない。なんだかよくわからない怒りが込み上げてきた。
 心の乱れは数式の乱れ。いくらやっても解けない。
 数分後、柚葉は突然立ち上がるとノートと問題集とペンケースをまとめて、怒ったように図書室から出ていった。榎は大股に去っていく柚葉の背中を見ながら、やれやれ、とため息をついた。
「西田さんっ!」
 柚葉が力任せに数学科準備室のドアを開け放つ。図書室よりほこりっぽい匂いが柚葉の鼻をついた。がらんとした準備室だが、教員たちの机の上では教科書と参考書とプリントの雪崩がいくつも起きている。その中でひょこりと頭が動いた。西田の眠そうな目が柚葉をとらえる。西田は「そんなに大きな声出さなくても聞こえてますけど」、と目だけで言うと、作業中のパソコン画面をロックして首をこきこき回した。柚葉は肩で風を切り五歩で西田に到達、西田が柚葉の方に椅子を向けるより早く、その鼻先に叩き付けるかのように問題集とノートを突き出した。
「この問題、どーーーーーっしても解けないんですけどっ!!」
「……」
 西田は無表情のまま、柚葉のノートをちらっと見ただけでこう呟いた。
「計算ミス」
「えっ、どこが!?」
 急に慌てだす柚葉とは対照的に西田はいつもの無表情を一ミリも変えずに言う。
「ここも。ここもだ。ぱっと見ほとんどケアレスミスだね」
「うっそだー! 私何回も見直ししたもん!」
「いやいや、そうでもないな」
 えーと、ペンどこにあったっけ、とキーボードと書類の間に挟まっていたボールペンをなんとか引っ張り出す。西田は緩慢な動作で柚葉のノートを受け取るとひとつひとつペンで指さし始めた。
「符合が逆、項が抜けてる、こっちは消した式を間違って引用してる」
「……ひゃー」
 絶句する柚葉にノートを返し、西田はさらりと言った。
「すぐできるよ、ここまでできてるんだから」
 西田に断りもなく柚葉は隣の空いた席にどすんと腰かけた。ペンある? と自分のペンを差し出してくる西田を片手で断って、柚葉は自分のシャーペンを苛立たしげにカチカチやってからその場で解きなおし始めた。
 符号が逆、それはわかった。項が抜けた。そりゃ書き直す時に暗算して式を省略したからその分の項の扱いが雑になっ……また計算ミスだ。消しゴム。出すのがめんどくさい。あ、ここまた計算間違えた。足し算間違えるとか私小学生のガキか。
 柚葉の頭は焦りと自己嫌悪の沸点を超え、ついに爆発してしまった。
「……っああああもう! イライラする! 無理! もう無理!!」
 そう叫んでぜーはーと肩で息をする柚葉。西田は何も言わず椅子に腰かけたまま柚葉を見ている。我に返った瞬間間をおかずに猛烈な自己嫌悪が襲ってきて、柚葉は死にたい気分だった。人前でヒステリーを起こすなんて最低だ。
「……あー、西田さんごめんなさい、なんか申し訳なくなってきた……」
「何で」
 西田の顔には驚いた様子もなく軽蔑の表情もなかった。それが余計に柚葉を混乱させる。
「だって、こんなにしてもらっておきながら解けないなんて、バカの極みでしょ!? 計算は初歩の初歩、教えてもらう以前の問題で、できないだの言う前にすでにバカというか」
 自分のふがいなさと行き場のない怒りを西田にぶつければぶつけるほどどんどん虚しくなっていく。
「……だからこんなに教えてもらっても、あたしはいつまでたっても数学できないんだよう……」
 柚葉は半べそのまま机に突っ伏した。西田の顔に一体どんな表情が浮かんでいるのか、怖くて柚葉は顔を上げられなかった。沸点から氷点下へのジェットコースターな私の感情。あの無表情の奥で、きっと私は軽蔑されている。馬鹿で、感情を抑えることのできない幼稚なやつだと思われている。ヒステリーなんて頭おかしいんじゃないの。そう思ってるんでしょ、どうせ。数秒の間があって、西田が唐突に言った。
「……真島さん、茶道部入ったんだったっけ」
「そうですけど」
「……」
 沈黙。何で西田先生がそんなこと知ってるのよしゃべったこともないのに、と思うがそんなこと今はどうでもいい。西田が立ち上がりどこかに行く気配がした。馬鹿な上にこんなに性格ハチャメチャだし、さすがに先生としても愛想つかされたかな、と柚葉がそう思ったその時、コトン、と机に何かが置かれた。
 袖でこっそり目じりの涙を拭ってから顔を上げると、目の前に湯飲みがあった。中には淹れたての緑茶。
「……?」
「よいしょっと」
 湯気の向こう、椅子に掛けなおした西田のしらっとした顔を見て、湯飲みを見て、無反応の西田をもう一度見て、結局仕方がないので湯飲みを見る。
「……なにこれ」
「緑茶」
「いや、それぐらいわかりますよ。何言ってるんですか西田さん」
「飲んでいいよ」
「へ?」
「いいよ」
 固まる柚葉に、飲めば、と西田は顎で言う。柚葉は怪訝な顔で湯飲みに手を伸ばし、一口すすった。
 熱い、と思ったがそうでもない。体を芯からあたためていくような温度。知覧茶の濃くすっきりとした薫りが頭を通り抜けていく。
 やさしい味がした。
 ……しかし、やはり意味がわからない。呆然として柚葉は西田を見る。
 西田は何も言わず、柚葉を待つ風でもなく、柚葉の解いたノートを眺めている。左手でノートを持ちながら、右手のボールペンはレポートパッドの上でさらさらと動いている。数式だけを見つめるその表情に軽蔑や優越感などはみじんもなかった。どこまでも自然体で、その横顔は、やわらかな視線は、数式の奥に向けられている。
 そのときようやく西田の言いたいことがわかって柚葉は不覚にもまた泣きそうになった。
 西田と目が合う。柚葉はドキッとして思わず目をそらした。その時ふと気づく。西田さんって、頬骨にほくろあるんだ――
「すっきりした?」
 いつもより穏やかな西田の声に驚いて、柚葉は左頬の小さなほくろを見たままうなずいた。
「おいしかった、です」
「よかった」
 西田の頬が緩んだ。ワンテンポ遅れてようやく理解する。あ、西田さん笑ったんだ、と。それだけで柚葉には十分だった。そして理解する。西田さんは厳しくても、きっと、誰より優しい人だ、と。今までの誰よりも私を真剣に見てくれている。見下すことなく、傲ることなく、ただ一人の生徒として見てくれている。そこには「できる子」も「できない子」も好き嫌いもえこひいきも無くて、ただ私は西田さんにとって平等で対等な「ひと」なのだ。
 ノート返す、と西田がそっとノートをこっちに押しやる。それを受け取って柚葉は椅子にまっすぐかけなおした。少し息を吸って、吐く。目の前には空っぽの湯飲み。それを机の奥に置きなおして、よし、と気合いを入れ直す。頭が少し軽くなった気がする。ゆっくりと、少しずつ柚葉のシャーペンが走り出す。
「西田さん、ここは」
「これか。うーん、ちょっと待って」
 数式と一緒に、絡まっていた「わからない」がほどけていく。

***

「ありがとうございました」
 柚葉がすべての問題を解き終えたとき、窓の外はすっかり暮れかかっていた。少し疲れた顔の西田が言う。
「君は苦手って言うけど、数をこなせばできる」
 それだけ言うと、用は済んだとばかりに大きく伸びをして、パソコン作業に取り掛かった。もう柚葉のことは眼中にない。問題集とノートとペンケースを抱え、柚葉は準備室を出る寸前、ちらっと振り返る。
「また来ていいですか?」
「いいよ」
 柚葉の顔を見ずに言う、そのそっけない答えが耳に心地よかった。

***

 その日から柚葉の中で西田は特別になった。数学の先生であり、顔はいいのに何故か致命的に残念なイケメンであり、どこか不思議な空気をまとっている、尊敬する先生。
 そして、ずっと気になっている。あの匂い。それから、たった一度だけ見せたあの笑顔。そよ風より優しいゆらぎのようなあの微笑を、西田はあれ以来一度も見せることはなかった。授業前も授業中も授業後もいつだって無表情、無反応。だからこそ柚葉は知りたいと思う。あの優しい気持ちはどこから来るのか。見たいと思う。もう一度、本当の西田を。
 いや、本物なんてどこにもないのかもしれない。というか、「本物の自分」なんて死語だ。あるのはただ一つ、無数に広がる自分の知らない一面。
 知りたいと思う。私の知らない西田先生を。
 放課後の図書室の日だまりの中、柚葉はぼんやり呟いた。
「西田さんって不思議ですよね」
 カウンターでツルネーゲフの「はつ恋」を読んでいた榎が顔を上げる。
「何を今更?」
「ですよね」
 柚葉はクスッと笑うとノートとペンケースを持って席を立った。図書室を去っていくその後ろ姿を、榎は興味深そうに眺めていた。
 そして柚葉は今日も数学科の部屋のドアを開ける。
「西田さん」
「うん?」
「数学教えてください」
 怒ったって焦ったって道は進めない。わかりっこない。柚葉は思う。数学と西田先生は似ている。知ろうとする者にだけ、真理の片鱗が見える。
 西田はゆっくりとこちらに向き直ると、いつもの気だるげな声で、少しだけ楽しそうに言った。
「どれを?」


第4話「My favorite things」につづく