かもめダイアリー

画:植木まみすけ http://mm9.hatenablog.com/

第4話「My favorite things」1

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 かもめ寮302号室。二段ベッドの二階、枕元のデジタル時計が「7:00」になったとたん、ベッドフレームに引っ掛かけていたヘッドホンから澄んだ歌声が響き出す。 

 そこに何があるとしても 未開の領域へ君と……

  がちゃがちゃと鳴り出す電子音とストリングス。柚葉はベッドの中で少しもぞもぞしてから、目をつぶったまま枕の下のウォークマンを取り出し停止ボタンを押した。柚葉の目覚まし時計はウォークマンだ。好きな曲をセットして、ベッドフレームにヘッドホンを引っ掛けて、それで目覚める。最近のお気に入りは坂本真綾feat.School Food Punishment、「Buddy」。
 柚葉は寝起きが悪い。ひたすら悪い。むくり、と起きたはいいものの、しばらく焦点の定まらない目でぼーっとしている。
 二段ベッドの下の方でぱさり、と晴が布団をはねのける音がした。
「ゆず、おはよ」
 晴はしゃきっとした顔で二階の柚葉を見上げるが、柚葉の方は「……ん」と返すのが精一杯だ。
 晴はベッドから降りるとさっさと制服に着替え始めた。現在7:02。
 ちなみに柚葉は7:16になるまでそのままぼーっとしていた。

***

 同じくかもめ寮、隣の301号室。7:00になったと同時に机の上に置いたBOZEヘッドホンから鐘の音と共にやわらかな歌声が鳴り響く。菅野よう子作曲、「Wanna be an angel」。
 二段ベッドの下段の遊莉はのそりと身を起こすと、眠たげな足取りで机まで向かって、ウォークマンの停止ボタンを押した。
 そして遊莉はその場でこきこきと首を回すと、そのままトイレに向かった。

***

 かもめ寮には食堂がある。たとえ寮とは言えど食堂営業時間があるので過ごす時間は非常に短いが、朝夕二食、食堂のおばちゃんたちが丹精込めて作ってくれる。
 柚葉はまだ寝ぼけた目でビュッフェ形式の朝ごはんをトレイの皿によそっていく。パン、サラダ、ヨーグルト、ソーセージ。
「あら、おはよう」
 調理カウンターの向こうから「食堂のおばちゃん」の一人、市子さんがにっこり笑いかける。「おはようございます」と柚葉は何とか返すが毎朝そのたびに思う。鹿児島弁だと「よ」に一番アクセントがつく。関東にいるときは「おはよう」でひとつだと思っていたが、本当は「お早う」なんだとこれならはっきりわかる。
 いや、そんなことどうでもよくて、と柚葉は寝ぼけた頭をふるふる振った。大事なことは、毎日毎日鹿児島弁の「おはよう」を聞いているとこっちまでつられそうになることだ。朝なんか特に。
 べたつくぐらいに甘ったるい醤油にもそろそろ慣れてきたが、それと一緒に言葉まで染まってはなんとなく負けな気がする、と柚葉は思う。
「真島ちゃん、目玉焼き半熟だっけ?」
「は、はい」
 市子さんが片手で卵を割って、厨房の奥のフライパンで焼いてくれる。柚葉は関東で食べていた朝食とほとんど同じメニューを食べようと心がけていた。半熟の目玉焼きだけは譲れない。何から何まで変わってしまった生活に逆らいたくて、せめて食べるときぐらいは昔と変わらないものが食べたかった。
「うーん、こんなんでどう?」
 出来上がった目玉焼きを皿によそってもらい、柚葉は礼を言って食堂のいつもの席に座った。同じテーブルではもう遊莉がいる。晴はとっくに食べ終わって部屋で荷物の準備をしている。
 柚葉は遊莉の斜め向かいに座った。遊莉が言う。
「あんた、毎日同じメニューで飽きないわねぇ」
 そしてそのまま白だしの味噌汁を飲み干した。柚葉とは対照的に遊莉はいつも和食だ。きっちり一汁三菜を守り、しかもよく食べる。
 私だってそのぐらい食べたいけど、支度に時間かかるからそうゆっくりもしてられないのよ。柚葉はそう言いたいが黙っておく。朝忙しいのはみんな同じだ。とにかくひとつわかっているのは、こいつとはとことん気が合わないということだ。
 目玉焼きを箸で割ると少しパサパサしていた。半熟がいいのに。遊莉、目玉焼き。朝からついてない、と柚葉はため息をついた。それを見て遊莉が「ケッ」とつまらなさそうに顔をしかめた。
「朝からシケた顔しちゃって。ごちそうさまー」
 柚葉が何か言い返す前に遊莉はさっさと食堂を出ていく。やることなすこと腹の立つ相手も珍しいわ、と柚葉は牛乳をイッキ飲みした。遠くで遊莉の鼻歌が聞こえる。supercell、「君の知らない物語」。
 えっ。柚葉の箸が一瞬止まる。
 遊莉が自分と同じ曲が好きだなんて、柚葉には信じられなかった。

***

 バレーボールの一件で柚葉と遊莉の緊張状態は少し解消されたものの、遊莉がやっぱり気に入らないことには変わらなかった。やることなすこと全てが柚葉と逆なのでいちいち勘に障るのだ。居眠り、物言い、横暴、拾い食い、まわし飲み、階段二段飛ばし。本人にとってはなんてことないんだろうけど、私にとってはイライラすんのよ。どんなにちっちゃいことでも積もり積もるとでかいのよ。あんたはそれをわかってない。……まあ、悪いやつじゃなさそうなんだけどね……
 物理の授業中、斜め手前の席で机に突っ伏しぐーすか眠っている遊莉を見ながら柚葉はそう思った。多分後で「ノート見せて」と来るのは間違いない。
遊莉の耳にイヤホンが刺さっているのが見えた。何、授業中にあんたそんなことしながら寝てるっていうの!?
 またふつふつ腹の中で怒りが沸いてくるのを感じながら柚葉は教科書のページをめくる。
しかし、いつもこんな風に物理や日本史など興味のない授業は寝こけているかイヤホンで音楽を聞いている遊莉だが、一つだけ真面目に受けている授業があった。
 音楽の授業だ。
 一年生は必ず美術か音楽の授業のどちらかを受けることになっていた。高校受験前までピアノを習っていた柚葉は音楽の授業を取ったのだが、たまたま遊莉も音楽の授業を取っていた。――ちなみに晴は「私音痴だから!」と美術を取っていた。
 音楽の授業を申し込んでから知ったのだが、この音楽の担当教員は高齢ながら有名な声楽家てもあり、教員をしながら何人ものプロを教えていたためわざわざその先生に習いたくて音楽の授業を取る生徒もいたぐらいだったそうだ。
 しかしちょうど柚葉たちの入学と入れ替わるように彼女は突然の病気で退職した。今年からはその先生の教え子が担当するんだって、とどこからともなく噂が回ってくる。しかも、その新任の先生、プロのオペラ歌手だという。柚葉はそれを聞いて驚いた。海央館、たかが女子高生のためにそんなことしていいの!? そしてすぐに思い直す。あ、そっか、そのためのバカ高い学費か……いやでもやっぱりプロってすごくない!? 超贅沢じゃない!?
そんなこんなで授業初日を迎えた。

***

 初めての授業のことはよく覚えている。
 音楽室に入ったとたん柚葉は、「なんかちがう」とはっきり感じた。
 スピーカーからは控えめな音量で音楽が流れている。ジャズだ。
 ピアノの辺りに先生の姿をとらえた。それはまるまる太った大柄で威圧感のある姿――ではなく。
小柄ですらりとした、猫のような立ち姿だった。
「やあ、おはよう」
 すっかりくつろいだ風に先生は微笑む。顎の辺りで切り揃えられた髪。大ぶりのピアスがきらきら揺れた。
「好きなところに座っていいよ」
 促されるままに柚葉は席に座る。オペラ歌手のイメージからは全くかけ離れたその姿に柚葉はしばらくあっけにとられていた。
「――さて」
 始業のチャイムと共に先生は大きく伸びをした。猫が準備体操するみたいに。そして、ピアノの前に立ってにっこり笑った。
「はじめまして。私、境秋穂と言います。前任の敦子先生の教え子にあたります」
 明るくよく通る声だった。
「セミナーとかで教えたことはあるけど、学生にこうやって教えるのは初めて。だから私もみんなと同じ一年生だね。本業はプロのオペラ歌手。音域はソプラノ……って、あんまりこういう堅苦しいの好きじゃないから、歌った方が早いかな?」
 そう言うなり、すうっ、と境先生が息を吸う。
 一瞬のしじまの後、凛として張りのある歌声が響き渡った。
 オペレッタ「こうもり」より、「公爵様」。
 小間使いのアデーレは公爵主催のパーティーに忍び込む。うっかり公爵に見つかったアデーレは「私は女優よ? どこをどう見たらこの私が小間使いに見えるのかしら。何を仰っているの公爵様?」と高笑いし、女優のふりをし続ける。そういうシーンだ。
 境先生は歌いながら優雅にステップを踏み、みんなの机の間を気持ち良さそうにくるくると舞っていく。その細い体のどこからそんな芯のある声が出るのか。びりびり鼓膜が震え、こっちのお腹まで音が響く。
 全て歌い終わりピアノの前でお辞儀をしたときには拍手喝采だった。
 初めて経験するオペラに柚葉は少し当てられたというか、拍手も忘れてあっけにとられていた。強烈な声量とビブラートの残響がまだ体の中で鳴り響いているような気がした。
 特によく音が響くわけでもないこの音楽室でここまでできるなんて。しかも、アカペラで。柚葉は呆然と教室を見回した。するとなぜか斜め前の席の遊莉と目が合った。二人とも軽い静電気に遭ったような顔をして、そしてその些細な動揺が相手に悟られないよう、何事もなかったかようにまた前を向いた。


つづく