かもめダイアリー

画:植木まみすけ http://mm9.hatenablog.com/

第4話「My favorite things」2

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 その次の授業から曲に合わせての発声練習が始まった。
「オペラ歌手がみんな太ってなきゃできないなんてありえない。発声を正しく行えば体は自然と痩せるもの。声は遠くに飛ばすの。そして、響かせる。それだけ」
 境は真っ先にそう言った。

 「みんなそれぞれに素敵な楽器を持ってるわ。あなたの体は大きな楽器。音を背骨に共鳴させるの。体は上へ上へと伸びていく、かかとは地面に突き刺す! イメージしてみて」
 まずはあなたたちがどんな声なのか聞かせてね、と境は全員に簡単な発声練習の譜面を渡し、軽くメロディを確認するとピアノの前に一人ずつ呼び出して歌わせた。
 柚葉は少しばかり自分の声に自信があった。というのも、幼稚園の時からピアノをやっていたから音程の正確さに自信があったし、歌うのが好きだったからクラシック唱法だって独学で勉強した。ビブラートだってできた。……小学生の時までは。
 中学生の時はそうやって遊んでいられる場合ではなかったのでピアノも辞め全く練習していなかったが、多分大丈夫だろう、と柚葉は自分のことを楽観視していたのだった。
 だがしかし、いざ境の言う通り練習で歌ってみると全くうまくいかなかった。喉の使い方がわからない。呼吸が浅い。腹筋の使い方が思い出せない。柚葉はだんだん焦り始めた。
「真島さーん、おいでー」
「は、はい」
 ようやく境に呼ばれた柚葉だったが、ピアノの前に立ってから柚葉はようやく自分の最大の弱点を思い出した。
 極度の緊張症だった。
 境の笑顔を見て柚葉は目眩がしそうになった。ピアノのイントロ。柚葉は恐る恐る歌い出す。
 三小節までいかなかった。境がピアノの手を止めた。
「緊張してる?」
 柚葉は境の顔を見ることもできず、無言でうなずいた。境が吹き出す。
「大丈夫よぉ、リラックスリラックス~」
 境は立ち上がると柚葉の肩を揉んだりさすったりし始めた。突然のことになんだかわからなくなる柚葉。
「肩や胸の周りが緊張してると体が強ばって響かないの。こう、肋骨が背中からがばっ! と開く感じで! リラックス!」
 はい、もう一回! とピアノ伴奏に促され柚葉はもう一度歌い出した。さっきよりも声が伸びるようになったがまだ硬い。むしろリラックスしろと言われるほどに体が強ばってしまうのだ。
 私の実力の30%も出てない……と落ち込む柚葉に、境は少し考えてからこう言った。
「真島さん、立ったまま前屈してみて」
「は、はあ……」
 柚葉は怪訝な顔で前屈した。
「そのまま両手ぶらぶらしてみて。肩甲骨の根本からリラックス」
「はあ……」
 言われるままに前屈のまま両手をだらしなくぶらぶらさせる。そして境は声を張り上げた。
「はい、全員真島さんにちゅうもーく!」
「!?」
 視線が集まる気配に顔が熱くなる。問答無用でピアノが鳴る。
「真島さん、さん、はい――」
 こうして柚葉は前屈のまま一曲歌わされたのだった……

***

 柚葉は毎週音楽の授業になると複雑な気分にだった。音楽は好きだ。歌うのも好きだ。境先生も好きだ。私が少しでも上手くなるように、楽しく歌えるように、どこまでも優しくわかりやすく教えてくれる。こんなにわかりやすくて目から鱗が落ちるような授業は今まで受けたことがなかった。でも。
 優しさは、時として痛い。
 相手がどれほど自分を思いやっているかがわかればわかるほどに、そうさせる自分が情けなくなる。期待に応えられない自分が悔しくなる。
 だから相変わらず柚葉の筋肉は強ばりがちだった。
「骨盤は下に突き刺す、頭は上に伸びてく、おでこは前に、後頭部は後ろに」
「……」
 ピアノの前で境の言う通りに歌ってみるが、声が安定しない。焦る柚葉。さらに声がぶれ、硬くなる。焦るほどに自分の中のイメージがぶれていくのを感じて、柚葉はさらに焦り始めた。
「肋骨開いてー」
 わかってる。わかってます先生。
「お腹で呼吸してごらん」
 え、うそ、何でこんなに息が浅いの。何で腹式呼吸できなくなってるの。
 喉が詰まる。
「ちゃんと吸って、吐く」
 先生、大丈夫、先生の言いたいことはわかってるよ。優しくわかりやすく言ってくれてることもわかるよ。私のこと気遣ってくれてることも。わかってるのに、何で。ごめんなさい、ごめんなさい。
 体がうまく動かない。
 あ、やばいだめだ、と思ったときには涙がぼろぼろこぼれ落ちていた。
 境や周りの視線が自分に集まるのがわかった。やってしまった、と柚葉は今すぐこの場から消えたくなった。
 先生が泣かせたんじゃない。私が勝手に泣いているだけだ。歌うのが苦痛なわけじゃない。私が癇癪起こして泣いてるのでもない。私は私が情けなくて、先生に申し訳なくて泣いてるんだ。残念なことに周りにはそう映らないことも柚葉は十分感じていた。この歳にもなって人前で泣くなんておかしいということも、今ので周りは自分のことを「めんどくさいメンヘラ」と認識しただろうということも。あまりにも情けなくてさらに涙が止まらなかった。無理矢理泣き止もうとして息を止めて、失敗して、無様にえずいた。
 その周りから静かに注がれる「ああ、かわいそう」という視線が死にたくなるぐらい嫌だった。
「せ、せん、せ」
 しゃくりあげながらなんとか柚葉は弁明した。境の顔を見て話せるわけがなかった。
「せん、せ、の、せいじゃ、ない、ですか、ら」
 涙と鼻水としゃっくりで窒息しそうになって、それだけ言うので精一杯だった。
 ぐしょぐしょの顔を袖で拭こうとして目線を少し上げると、ちらっと境の表情が見えた。
 意外なことに、境は苛立ちも落胆も同情もつくろいもない表情をしていた。事故でも起こったような「しょうがないな」という顔。初めてされる対応に柚葉は少し戸惑った。
「せんせ、ごめん、な、さ、あ、」
「ううん、私は平気よ」
 境は少し苦笑して、そのまま柚葉を優しく抱き締めた。柚葉はなぜそうされたのかよくわからないままに、なるべく境の服が濡れないように顔を離して言った。
「せんせ、は、なんにも、悪く、な、い、です」
「うん。わかってるよ」
 君の言いたいことは。そこまで言わずとも境はそう伝えているのが柚葉にはわかった。境の口調は突き放すでも慰めるでもない、不思議とからっとした口調だった。
「私もね、イタリアで散々泣かされたから気持ちわかるよ」
 あとはこの事態を静かに見守る周りの生徒に向けて言った。
「私イタリアにいたときにね、すんごい意地悪な男の先生にいじめられてたの。ハゲでゲイのおっさん。その先生は男には優しいけど女にはむちゃくちゃ意地悪で、特に練習の時なんか私ばっかりいじめるのよ。どうでもいいところ何時間もこねくりまわして、ここがダメだ、あそこがダメだって。いつも頑張って耐えてたけどたまに悔しくて泣いちゃうときもあって、そうしたら『見ろ! これが日本人の女の涙だ!』って言うの。最低でしょ」
 えー、ひどい、と驚く周りの声がする。それと同時に柚葉は自分に集まっていた視線がわずかに和らいだのがわかった。境が抱き締めていた腕を解き、小声で囁く。
「少し落ち着いた?」
 うなずく柚葉の喉はまだひくついていた。鼻をすすりながら柚葉は言った。
「トイレ行って、顔洗ってきます」
「うん。そうした方がいい」
 柚葉はそれを聞き終わらないうちに逃げるように音楽室を飛び出し、誰もいない女子トイレに駆け込んだ。
 壊れた蛇口みたいに涙が止まらなかった。さっきまで自分に注がれていた痛い視線や深い自己嫌悪がフラッシュバックして何度か呼吸がおかしくなったが、それも時間が経つとだんだんと自分で抑え込めるほどになってきた。
 そしてようやく普通の呼吸ができる頃には授業終わりのチャイムが鳴っていた。

***

 授業中に帰ってきたときの気まずさに比べたらまだましだろう、とやや強引に自分を納得させて、柚葉は自分の荷物を取りに行くべく音楽室に戻った。本当は来週の授業になったら「真島さん、先週大丈夫だった?」と次々に言われるか、腫れ物に触るような無言の空気が待ち受けているだろうというのはもちろん予想していたのだが。それについてはあえて見ないふりをした。その場しのぎでもいいからあの時は私は一人になるべきだった、だから正解、と思うことにする。
 音楽室の前まで来て柚葉はぎょっとした。音楽室のドアの上の窓から蛍光灯の明かりが漏れている。誰かまだ中にいるのだ。しかもピアノを弾いている。誰かが。
 境先生、と思ったがどうやら違う。一音一音の響きが違う。ゆらぐような強弱に緻密なタッチ。境よりも明らかに数段上手いのがわかった。
 ものすごくピアノが上手いのは驚きだが、どちらにせよ中に誰かいて、それが生徒で、多分さっきまで授業を受けていた誰かであることには変わりがない。柚葉は尚更音楽室に入れなくなった。しかし荷物は取りに行かなければいけない。授業用のファイルも、財布も、全部教室の中だ。
 どうしよう、としばらくドアの前で突っ立っていた柚葉だったが、次第にピアノの旋律に聞き入っていた。
 ドアの隙間からこぼれるピアノの音は、森の木々の葉からこぼれる雨粒のように思えた。放課後の薄暗い、誰もいない廊下に静かな音色が溶けていく。
 こんな素敵な演奏、誰ができるんだろう。柚葉は純粋に気になった。ただの女子高生にできるわけがない。
 柚葉は恐る恐るドアノブに触れると身を小さく屈めて、音がしないようゆっくりとノブを回した。そして、気づかれないよう注意しながらドアをほんの数ミリ細く開けた。
 グランドピアノの下で動く足が見えた。顔は譜面台やピアノの蓋と重なって見えづらい。柚葉はドアの隙間にぐっと顔を近づける。
 その時、おでこがドアにぶつかった。
 ピアノの音がぴたっと止まる。
 まずった、と思ったときにはすでに足音がすぐそこまで来ていて、逃げようとしたときにはもうドアが勢いよく開けられていた。


つづく