かもめダイアリー

画:植木まみすけ http://mm9.hatenablog.com/

第4話「My favorite things」3

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 柚葉はびっくりしてしばらく目の前の顔を見つめていた。――遊莉の顔を。
 遊莉も少しびっくりしていた。そして少し呆れた風に言った。
「……あんた、何やってんのそこで」

「いや、その、」
 こういう時にさらっと「荷物取りに来た」と言えないのが柚葉である。だから散々その場でぐずぐずごにょごにょした挙句出た一言がこれだった。
「ピアノすごくきれいだった!」
「……」
 遊莉はものすごく怪訝そうな顔をしてから、
「……立ち聞き?」
「あっ、そういうのじゃなくて、ほら、さっきの授業の荷物置きっぱなしで」
「あー、それね。あんたそういうの先に言いなさいよ」
 そう言ってあっさり音楽室に入れてくれた。

***

 音楽室はがらんとしていて、遊莉の鞄だけが机の上に放り出されていた。柚葉は自分の座っていた席を探し当て手早くまとめると、さっきから聞きたかったことを遊莉に投げかける。
「さっきの曲、何て名前?」
グリーグノクターン、Op.54の4」
グリーグかあ! 遊莉、ピアノものすごく上手いね!」
「あ、う……まあ、多少」
 グランドピアノにもたれかかる遊莉は少しばつの悪そうな顔をした。
「……あんまりこれ人に言わないでね?」
「え? そうなの?」
遊莉は照れたように口ごもる。
「色々面倒だから……」
「ふーん」
 普段おちょくったりバカにしたりしてくる遊莉からは想像もできない意外な一面に、柚葉はちょっと得した気分だった。なんとなく遊莉の弱味を握ったような気がして小さな優越感を覚えた。
「あ、そうそう。私も昔習ってたんだよ、ピアノ。もうやめちゃったけど」
 柚葉は久しぶりのピアノにわくわくしながら自信満々に鍵盤の正面に座った。軽くペダルの感触を確かめてから鍵盤に手を沿わせる。
 柚葉が気持ちよく弾いている後ろで、遊莉は腕組みしたまま呟いた。
「……それ、ショパンノクターン?」
「うん。あとラヴェルの『月の光』とかもやったな」
 柚葉はすぐに手を止めると、『月の光』を弾き始める。20秒もしないうちに遊莉がボソッと呟いた。
「……雑」
「はうっ!」
 柚葉の優越感が一瞬で瓦解した。さらに遊莉の言葉が追い討ちをかける。
「あのね。そんな弾き方だとショパンが卒倒するわよ。あとラヴェル、トロすぎ」
「まあまあ弾けてるんだからもう少し褒めてくれたっていいじゃん! 社交辞令で!」
「これでも我慢してる方よ!」
「ひどい! 私のHPはもうゼロだよっ!」
 貸して、と遊莉は柚葉を尻で押しのけると、軽く腕まくりしてから弾き始めた。ラヴェルの『月の光』。
 柚葉のボコボコの心に遊莉の素晴らしい演奏が塩を塗り込んでいく。ピアノ弾けるとかもう二度と言えない、と柚葉は強く反省した。圧倒的な力の差と努力の差をまざまざと感じて自分が恥ずかしくなった。こんなに泣ける演奏は初めてだ。色んな意味で。
 まるっと一曲弾き終わると遊莉はいささかすっきりしたようだった。柚葉はぐったりしていた。
 そんな柚葉には目もくれず、遊莉は独り言のように言った。
「私もラヴェル好きなんだけどね……『クープランの墓』って曲知ってる?」
 柚葉が首を横に振ると、遊莉はまたピアノで「こんな曲なんだけどね」と弾き始めた。
「昔フランスに旅行した時、空港でかかってたの。センスいいわよね、ホント」
 指が跳ねるように動き出す。浮き立つようなその音たちに柚葉は嬉しくなると同時に、不思議な感慨を覚えた。
 机に腰かけ足をぶらぶらさせながら、柚葉は呟いた。
「あのさあ……もしかして私と遊莉って曲の趣味似てるかもしれない」
「そう?」
「朝、鼻唄してたでしょ。supercellの『君の知らない物語』」
 遊莉は気まずそうにうなずくとそっと手を止めた。柚葉は遊莉をじっと見た。
「もしかしてsupercell好き?」
「うん」
「EGOISTは?」
 遊莉の目の色が変わるのがわかった。
「わぜ好き!」
 わ、わぜ……? ときょとんとする柚葉に遊莉が興奮気味にまくし立てる。
ギルティクラウンのオープニングでしか知らないんだけどさ、ものすごくいいよね」
「ギルクラのサントラ、私のウォークマンに入ってる」
「マジで!」
 遊莉は思わず椅子から立ち上がった。柚葉と遊莉の距離がゼロになった瞬間だった。
 柚葉はウォークマンを探して慌ててスカートのポケットに手を突っ込む。
「遊莉、ギルクラ好きなら多分これも好きだと思うよ。坂本真綾feat.School food punishmentの――」
「『buddy』でしょ!」
「そう! それ!」
 遊莉が柚葉の隣の机に腰かける。
「あたし坂本真綾結構好きでさ、『ループ』とか」
「あー! 菅野よう子私大好きなの!」
「あたしも!」
 気ばかり焦って手が動かない。柚葉はようやくウォークマンを取り出した。右手でからまったのをほどきながら左手で電源を入れる。
「最近聞くのはね、えっと」
 からまったイヤホンをほどく柚葉に間髪入れず遊莉が言う。
「『トルキア』」
「めっちゃわかってるじゃん遊莉!」
 今までのわだかまりが嘘みたいだった。同じものを好きだと言えるこの嬉しさに柚葉はぞくぞくしていた。そして、遊莉も同じ気持ちでいることが何より嬉しかった。
 イヤホンの右耳を遊莉に手渡すと遊莉は何も言わずとも受け取り耳にはめた。柚葉は左耳に装着すると画面をスクロールした。
「私『トルキア』もいいけど『未完成ラブストーリー』も好き」
「それは知らない」
「聴く? 今ちょっとずつCD集めてるところ。まだ2と映画版しか持ってないけど、すごくいいよ」
「今度貸してくれる?」
「もち!」
 ようやく『未完成ラブストーリー』のタイトルを見つけ、柚葉はプレイボタンを押した。
 メランコリックなギターの音が静かに二人の間に流れた。一粒も無駄のない端正なメロディに遊莉が満足そうに息をつく。
 一分少しはあっという間だった。
「いい、これ」
 遊莉は聴き終わるとイヤホンを外した。
「こういうの好きよ。他に何かある?」
「あ、『Magic Waltz』って知ってる? 海の上のピアニストって映画の」
「知らない」
「すごい楽しいんだから! 見てみて!」
 柚葉は鞄をがさごそやってからスマホを出した。素早くYouTubeを開き、検索する。遊莉が小さな画面を覗き込んで言った。
「あたしこういう機械全然ダメで、未だにガラケー
「そうなの? 便利だよ、ほら」
 柚葉はスピーカーの音を最大にした。
 嵐に揉まれ大揺れの豪華客船の中、ダンスホールでピアノを弾く主人公。ピアノと一緒にホールを右へ左へ滑りながら、酔っ払いのトランペット吹きと笑っている。
「こういうのジャズっぽいって言うのかな、よく知らないけど」
「私もジャズはあんまり詳しくないんだけど。でもさ、こんな風に楽しく弾けたらいいよね!」
「……そうね」
 遊莉の顔が一瞬曇った理由がわからず柚葉は少し戸惑った。しかしすぐに遊莉が続ける。
「あ、でも私もジャズ一曲だけ知ってる」
「どんな?」
「えっとね……ビル・エヴァンズの『Waltz for Debby』」
 遊莉にスペルを教えてもらいながらYouTubeで検索すると、たくさんの動画が出てきた。これこれ、と遊莉が画面をクリックすると洒脱なメロディが流れ出す。わずかに肩を左右に揺らしながら遊莉がにやっと笑う。
「いいよね、この感じ」
「遊莉はジャズ弾かないの?」
 遊莉は首を横に振った。
「弾いたらジャズの癖がつくからやめろって言われてる。クラシック弾けなくなるって」
「えー。楽しい曲いっぱいあるのに。ピアソラの『リベルタンゴ』とかさ、かっこいいんだよ。ヨーヨーマとピアソラのコラボがあってさ、それ見てかっこいいなーってずっと思ってた」
 二人でスマホを取り合うようにしながら、次々と色んな曲をかけていく。ピアソラガーシュウィンバーンスタインオスカー・ピーターソン菅野よう子。目黒将司。小曽根真。遊莉イチオシのカプースチンの『Toccatina』を聴いたときにはあまりの正確無比な演奏と、音そのものが一つの生き物であるかのような有無を言わせぬ圧倒的な音の迫力と衝撃に呆気にとられた。
 あっという間に時間が過ぎていき、そろそろ下校時刻が迫ってきた。これでおしまいにしよう、と柚葉はとっておきの一曲を再生した。
「ひたすら楽しそうなのはこれ。ファジル・サイ、トルコ人による『トルコ行進曲』」
 やや猫背のだらっとした男――彼がサイだ――が観客にだらっと一礼してから、ピアノの前に座り、そして座るや否や気の抜けきった後ろ姿で弾き始めた。
 遊莉はそのうちゲラゲラ笑い始めた。
「なにこれ!」
「でしょ!」
 初めは確かにモーツァルトの『トルコ行進曲』、のはずだった。ちょっとドライブ気味の。それが目を離した隙にドリフトかけてコースアウトして、時速120キロの飛んだり跳ねたりのむちゃくちゃな超絶技巧ジャズになってゆく。
「前に銀座のヤマハで楽譜見たことあるんだけどね、譜面真っ黒だったからすぐ閉じて棚に戻した!」
 サイは時折口ずさみながら、ピアノを習いたての子供みたいに全身で楽しそうに鍵盤を叩いていた。前屈みになったり、寝そべったり、うねったり、跳ねたり、歌ったり。
 身体中から「ピアノが好きだ!!!」という気持ちがうるさいぐらいに轟いていた。
「聴いててこんな笑ったピアノって初めて!」
「遊莉ぐらい上手かったら、このぐらい楽しく弾けそう」
「そんなことない。練習してるとね、『楽しい』だけじゃ頑張れなくなるんだよ」
 サイの演奏が終わると遊莉は皮肉っぽく言った。
「素敵な演奏がしたくて練習するんだけど、綺麗な曲をやるんだけど、練習してるときは全然綺麗じゃないし、楽しくない」
「練習ってそんなもんじゃないの?」
「心がどす黒くなる」
軽い気持ちで言ったはずだったが、答える遊莉の目は真剣だった。
「初めはピアノが好きだったはずなのに、最後は嫌いになる。確かに『好き』だけじゃいい演奏ができないし、綺麗な心のままじゃ『綺麗』は産み出せないってわかった。綺麗なままじゃいられない。泥にまみれて、血にまみれてる。そうすると段々楽しいのか誰かより上手くなりたいのか、わかんなくなるんだ。それが本当に目指してたものなのかさえもね。好きで始めたピアノのはずなのに自分が『好き』だったのかどんどんわかんなくなっていくの」
 淡々とそう語る遊莉の中に暗く深い河のような感情があることを柚葉は初めて知った。ただ単純に練習が好きだ嫌いだという簡単な話ではない。何かひとつを目をそらさず好きでいつづけることは自分を何度も傷つけると共に、たくさんのことを奪っていく。
 それに、と遊莉は続けた。
「私、医者継がなきゃいけないから」
「医者?」
 うん、とうなずく遊莉。
「うちの親、開業医なんだ。ほんとは兄貴が継ぐ予定だったんだけど浪人しててかなりヤバくて。あたしにお鉢が回ってきたの、お前が継げって。だからピアノやってられなくなっちゃった」
 そう言われてもなぜそうなるのか、柚葉にはわからなかった。何だって自分の未来は自分で決めるものだとずっと思っていた。家を継ぐとか継がないとか、そんなものがまだ存在していることにが理解できなかった。
 だから素直にこう言ってしまったのだ。
「医者って継がなきゃいけないもんなの? 何で自分の好きな職業に就けないの?」
「……」
 遊莉が答えるまでにかなり間があった。柚葉にとっては当然の質問だったが、それは遊莉にとってはかなり衝撃的な問いだった。
 遊莉はしばらく呆気にとられていたが、辛抱強く説明してくれた。
「家族の誰かが継がなきゃうちの病院潰れるから。土地も建物も取られてうちには一銭も入らなくなる。だから、あたしか兄ちゃんのどっちかが継ぐしかないの。兄ちゃんは試験通っても継がないって言ってるし」
 そこでようやく柚葉は自分のした質問の意味がようやくわかってきたのだった。
「ほんとはピアニストになりたかったんだけどね。コンクール出るのもやめちゃった」
「コンクール!?」
「……絶対言わないでよ。去年全国三位までは行った」
「全国三位!?」
 ゆず派の素っ頓狂な声に遊莉は眉をひそめる。
「絶対言うなよ、先生とかにバレたらめんどくさいことになるから」
「……」
 遊莉の鋭い眼光に柚葉もさすがに口をつぐんだ。そして、初めて遊莉の背負う色んなものの大きさに驚いた。日頃そう見せないからなおさらだった。
「……やっぱり遊莉すごいよ、意外だったけど」
「意外って何よ、意外って」
「ごめん」
 二人で顔を見合わせて、そしてお互いの顔が妙に真剣でおかしくて、ふっ、と二人で小さく笑った。
「ゆず、あたしがピアノ弾けるってこと、あんまり言わないでね」
「うん。でもさ、さっき遊莉ピアノ弾いてたじゃん。そんな隠すこと?」
「うーん……」
「なんだかんだ言ってピアノ好きじゃん、遊莉」
「……わかんない」
 遊莉ははにかんだ。
「あたしにはあんまりわかんないや」
「でも私は遊莉のピアノ、素敵だと思うけどな」
 すると柚葉の方にぐぐっと顔を寄せて、真面目な顔で遊莉は訊いた。
「ほんとにそう思う?」
「うん」
 柚葉はただ素直に、力強くうなずいた。
「私は遊莉の演奏好きだよ」
「……ありがとね」
 そう笑う遊莉はどこか誇らしげで、少しばかり切なげだった。
 柚葉はただ素直に自分の気持ちを伝えたつもりだったが、その自分の言葉が遊莉の心を慰めたと同時に少なからず引っ掻いたことに、柚葉はずっと後になってから気がつくのだった。

***

 翌週の音楽の授業から本格的に歌う授業が始まった。いくつかある楽譜から自分で好きなものを選んで、練習して、みんなの前で歌うのだ。
 先週のこともあり、柚葉を見かけるといろんな子たちが「大丈夫だった?」とそっと遠慮がちに声をかけてきたが柚葉は自分が思っていたよりも普通に接することができた。思い切って境に「先週は取り乱してすみませんでした」と小声で謝ると、「うん? 別に平気よ?」となんでもなさそうな返事が返ってきて柚葉は(そんなことないくせに)と思うと同時に、少しほっとした。
 銘々に自分の好きな楽譜をとり全員が席に着くと、境は言った。
「ピアノ伴奏は私ひとりじゃ足りないから、誰かピアノを弾ける子を探してピアニストになってもらってください。弾ける子がいなかったら私も手伝うけど、基本は自分で探してね?」
 教室が少しざわついたのち、すぐにみんな席を立ち歩き回り、「ピアノ弾いてもらえる?」「いいよ」と約束をとりつけて楽しそうな声が聞こえてくる。柚葉はこういう二人組をつくったりするのが苦手だった。あわあわしているうちに一人ぽつねんと席に取り残されてしまう。また心臓がバクバクしてくる。
 柚葉は慌てて席から立ち上がった。そして自分の楽譜を握りしめ、先週と同じように大股で教室を横切り彼女の席の前に立った。
「遊莉っ」
「ん」
 柚葉は机の上にばん! と楽譜を叩き付けるとぺこっと90度にお辞儀をした。
「頼んでいいかなっ……!」
 柚葉にしてはかなり勇気を出した方だった。「みんなには内緒ね」とは言われたけれど頼める相手は遊莉しかいなかった。遊莉がペットボトルのお茶を一口飲む音がする。
「まー、別にいいけど」
 意外にもあっさりした返事に顔を上げる。遊莉はいつものようににやりと笑ってこう言った。
「そのかわり今度CD貸して?」
「あ、うん」
 いつものように流されて反射的にうなずいてしまったがいいのだろうか。遊莉は悪代官のような満足顔で柚葉の楽譜を眺めている。
「んふふ、ちょー楽しみー」
「遊莉、いいの?」
「いいって、何が」
「だってピアノ」
「このぐらい大したことないわよ。お互いさまでしょ」
 そうやってさらっと言ってのけるあたり、こいつは大物だと思う。柚葉はそう心の中でつぶやいた。
「それよりCD貸して」
「あ、はい」
「あとね、ゆず、あたしの伴奏よろしく」
「うん……ってええええ! 私遊莉より全然下手だよ!?」
「そんなことどうでもいいのよ。じゃ、私弾くからとりあえず歌ってくれる?」
 遊莉は席から立ちあがりオルガンを陣取る。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 私の楽譜返してよ!」
「あと私結構楽譜に書き込みする方だからよろしくね。さん、はい」
「え⁉――♪なのはーなばたけーにー……」
 そんな二人を遠くから、堺は微笑ましそうに見ていた。


第5話「ややこしい二人」につづく