かもめダイアリー

画:植木まみすけ http://mm9.hatenablog.com/

第8話「ベイビーパニック」1

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 今年のゴールデンウィークは飛び石休暇だった。火曜日が休日ののち水木金が平日、土曜から火曜まで休日、となっていて、火曜と木曜に授業のある西田にとっては二度も休日があるおいしい期間……というわけにもいかなかった。
 そもそも休日は二度もない。水曜日に振替授業が入ったので結局は一度きりである。しかも休みで授業がないということは授業進度もその分遅れるのでクラスごとにカリキュラムを組み直さなければならない。こうなるとあまり休みの意味がなくなっているような気がするが、やはり休みが嬉しいことに変わりはない。

 明日は木曜日、明日は休み。そう、今日さえ乗り越えれば休みなんだ……! と西田は何度も心の中で唱えながら水曜日の朝を迎えたのだった。今日は早めに学校に行って残業しないで済むよう仕事を済ます。授業が終わったらまっすぐ家に帰って、ジンジャーエール飲みながらリーガエスパニョーラの試合をリアルタイムで――
 そこで西田の夢は途切れた。携帯のバイブレーションで目が覚めた西田は、自分が二度寝していたことに気がついてベッドからのっそり身を起こした。携帯の目覚ましを止めようと画面を見ると、鳴っていたのは目覚ましではなく着信だった。表示された名前を見た西田は殺意を込めて通話ボタンを押した。 
「……何」 

 西田の声には寝起きの悪さと不機嫌とが重なっていた。 
『ヨシ、今すぐ俺んち来て!』 
「何。俺今日忙しいんだけど……」 
 長い長い水曜日の始まりだった。

***

「……友紀、これは」
 玄関で呆然とする西田をよそに、榎は部屋中をばたばた行ったり来たりしながら早口にまくし立てた
「今日俺学会で京都行くじゃん、嫁さん一日勤務じゃん。由博、お前今日一日宏紀預かっててくれる? 今日お前休みだろ?」
 動き回る友紀を目で追いながら、西田はスーツのポケットに手を突っ込んだ。
「明日香さん家に預けるんじゃなかったのかよ」
「お義母さんがインフルかかったって昨日電話が」
「えっ!?」
 とっくに時期は過ぎただろ、と思ったが、先日校医の先生が「うちの女子高生は免疫かなりありますけど、僕の地元じゃまだ流行ってるんですよねぇ。小学生とかお年寄りとかは未だによく来ますよ」とぼやいていたのを思い出す。
「多分明日香が七時頃に迎えに来るから!」
「ちょっと待て――トモ!」
 慌てて風呂場に向かって叫ぶ。
「何!」
「俺今日振替授業!」
 そのセリフに榎が全ての動きを止めたのがわかった。一呼吸置いて榎がわめく。
「っああああああ!! ちっくしょー、どうすっかな」
 二人で必死に思考を巡らせた。
「トモ、隣の近藤さんちは!?」
ゴールデンウィークで旅行中だ!」
保育所――」
「まだ通ってねぇってのあほ!」
 自分の常識のなさを責められしゅんとなる西田。
 しばらく沈黙が続く中、ふと浮かんだ思いつきが西田の口をついて出た。
「……学校に連れていくしかない……?」
「それだ」
「いや、」
 でもやっぱり職場に連れてくなんてだめだ、と言いかける西田を遮るように榎が早口に言う。
「今日一日だけ、一日だけだ。何とか耐えろ。終わったら学校まで迎えに行くから」
 切羽詰まって殺気すら感じさせる兄に強引に押しきられては、西田もさすがに「嫌だ」とは言えなかった。上着と鞄をひっ掴んで玄関に走る榎。靴べらを使わないで靴を履こうとするのでうまくいかない。
「みんな何とかしてくれるはずだ、ヨシ、あとは頼んだ」
「みんなって誰だよ。頼んだって、何をどうするんだよ!?」
「自分で考えろ! ――やべぇ、もうタクシー呼ぶしかっ!」
 それだけ叫んで榎は慌てて家を飛び出した。後に残されたのは、西田と一歳児の二人だけ。 とんでもなく面倒なことを押しつけられたのはわかるが、どうもパニックが先にたって実感と理解が追いつかない。
 しばらく木偶のように突っ立っていた西田も頭を振った。
「……俺もやばいっ」
 その時一歳児と目が合った。
「……」
「……」
 静かに流れる不思議な沈黙。
「……今日一日よろしくお願いします」
 正座してぺこりと頭を下げる西田。それに答えるかのように甥っ子は西田の頭にぽてん、と手を置いた。

***

 始業のチャイムと同時に気配ほぼゼロで無言のまま教室に入ってきた西田。しかし、いつもならチャイムが鳴っても西田が授業を始めても止まらないあのうるさいお喋りの声が、今日はぴたっと止まった。
 みんなの視線は教卓の西田の、その背中に釘付けだった。静まり返る教室。あのボソボソした低い声が、今日ははっきり聞こえる。
「……はい、やるよ」
 顔色一つ変えず、西田は開いた教科書を左手に、チョークを右手に、「いつも通り」に授業を始めた。チョークがカツカツいう音がうるさい。
「前回B問題の応用の三番目までやったわけだけど、」
 生徒全員が絶叫した。
「西田さんっっっ!!」
「……何?」
 振り返った西田の顔は少しひきつっていた。
「誰の子ですかこの子はっ!?」
 教卓に殺到する女子高生たち。西田は黒板の方を向いたまま動けなくなっていた。西田に背負われた赤ん坊は子供らしい忘我とした表情で教室を物珍しそうに見ていた。
「親戚の子?」 
「きゃー、かわいい! ほっぺぷにぷにー」
「まさか西田さん、いつの間にデキ婚――」 
「西田さんがんなことするわけないでしょっ!」 
 顔を真っ赤にして勝手に怒る柚葉。そんなこともお構いなしに晴は遊莉と一緒に赤ちゃんと遊んでいる。 
「あー、笑った」 
「へぇぇ、おもしろーい」 
 その時突然赤ん坊の顔が歪んだ。

 ぷぎゃあああああああ 

「オムツ? ミルク?」
「西田さんどいて!」
 戸惑う西田をはね除け教卓をぐるりと取り囲む女子たち。
「……くさい。オムツだ」
「よーし、トイレ行ってきます!」
「あたしもー!」
 次々と立ち上がる生徒たちに西田はわけがわからない。
「え……え? え?」
 いつの間にか赤ん坊は西田の手から離れ女子高生の手から手へと渡っていた。
「へっへー、任せて、弟のよくやってたから!」
「その前にオムツどこ?」
「保健室あるかねぇ」
「さすがにないんじゃないかな?」
 暴走したら止まらない女子高生たちにあっけにとられつつ、西田は独り言のように呟いた。
「オムツは理数科準備室に……」
「じゃ私取ってきまーす」
「よーし頼んだ!」
「ラジャ! 頼まれた!」
「うちも行くー」
 そんな風にして女子数人は束になって教室を出ていった。もう授業もへったくれもない。

 嵐が去ったところで、柚葉は呆然としている西田に聞いてみた。
「……で、結局あの子どこの子なんですか?」
 答えていいものかと悩んだそぶりをミクロン単位で微量に見せて、長い沈黙の後、観念して言った。
「……俺の甥っ子、です」
「へええええ!」
 なになに? と柚葉の周りに集まる子達と逐一説明してやる遊莉。 あーあ、とでも言わんばかりに西田はため息をつき、天井を見上げた。

 

つづく