かもめダイアリー

画:植木まみすけ http://mm9.hatenablog.com/

第8話「ベイビーパニック」2

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 西田はこのあどけない赤ん坊、宏紀くんを「甥っ子」「親戚の子」としか呼ばなかった。多分、自分が榎さんの弟だということを知られたくないんだ、と柚葉は思う。確かに先生同士が知っているならまだしも、生徒に知られるのは面倒だろう。少なくともこの状況でカミングアウトしたら全生徒にあと二、三年はそのネタでいじられることを覚悟しなければならない。あらためて先生業の辛さに頭が下がる柚葉だった。

 そして現在、宏紀くんは家庭科の竹之内先生の管理下に置かれることとなった。もちろん家庭科教員だけでなく出産・子育て経験のある教員も代わる代わる面倒を見に来ることとなったし西田もとりあえず保護者なので授業以外はつきっきりだ。休み時間、 家庭科室への廊下を三人で歩きながら遊莉が言う。

「しかしまあ、竹之内センセのところってのも、皮肉っつーか……」

「なんで?……もー、ゆず、ほっぺやめて」

  柚葉は晴のほっぺたを無言で指でつついている。柚葉は「晴ってだいぶ赤子みたいな顔してるけど、ほっぺの柔らかさも一緒なんだろうか」と思ってつついているのだが二人ともそんなことがわかるはずもなく、けれど「よくわかんない行動も、ゆずなら仕方ないか」と思っているので無視して会話を続けてしまう。

「だって、考えてみてよ。うちら女子高生ほど『女らしさ』とか『母性』って言葉から最も遠いところで生息してる生き物もいないけど、それを教えるのが竹之内っていうのもさー。竹之内センセ何歳か知ってる?」

「えーと……よく知らないけど、アラサー?」

「アラフォーよ」

 柚葉は晴をつつくのをぴたっと止めた。

「え、うそ!? あんなに肌がきれいで美脚で大人っぽくて上品で余裕があって色気もあるのに? アラフォー!?」

「すごーい! もはや魔女だね!」

「晴、美魔女って言っとこう?」

  さすがの天然に遊莉もちょっと肝が冷えた。「でもさ」と柚葉が言う。

「竹之内先生、恋人がいそうな気配これっぽっちもないよね」

「それ。そもそも、家庭科の先生って結婚できないって言うよね。高学歴だし、仕事持ってるし、教師だし、家庭科の先生だから家事も全部できちゃうし。もはや結婚する必要がないっていう」

「そうかー、ますます竹之内先生結婚できな……」

「じゃあ自由に生きていけるね!」

 その一言に柚葉は一瞬考えてしまった。無意識に私は「結婚できないことはよくないこと」と思ったけれど、本当にそうなんだろうか? そして、自由に生きていけるとして、私にとってはその「自由」ってなんだろう?
 一秒にも満たない思考だったが、柚葉の心をモヤっとさせるには十分だった。

「……晴も自由に生きていけそうだね?」

 皮肉のつもりじゃなかったが、晴はどこまでも自由に生きていきそうな気がした。私はどう生きていくんだろう。
 家庭科室のドアは開けっ放しだった。中にいた西田と柚葉で目が合った。

「あ、三人組」
「こんな変人たちとひとまとめにしないでください!」
「ちょっとゆず、それどういうことよ」
「ゆずの方が変人だよねー?」
「晴に言われたくないよ!」
「あんたたちうるさいわよ、さっさと入るなら入りなさい」

 隣の家庭科準備室から宏紀くんを抱いた美魔女――竹之内が顔をのぞかせる。家庭科室と家庭科準備室はドア一枚で繋がっている。遊莉がすぐさま駆け寄っていった。

「センセー、赤ちゃん見たいです!」

 それを柚葉と晴は遠巻きに見ていた。

 「遊莉がそう言うのも意外だよねー。晴とか言いそうなのに」

「いやー、私は小さいころ弟抱っこしたから、もういいかなって」

「早くない?」

  遊莉が宏紀くんのほっぺをぷにぷにしながら言う。

「ねー、ゆずは興味ないの?」

「な、なんか怖い……」

「あー、確かにあんた、子どもに泣かれそう」

「るっさいわ! その通りよばーか!」

  西田がそのやり取りを見ながら吹き出しそうになるのをこらえていた。レアショットだというのに運の悪く柚葉はそれを見ていなかった。

「そもそも、何で遊莉が赤ちゃんに興味あるのかわかんないわ」

「え、だって見たことなかったんだもん。うちの病院みんな年寄りしか来ないし」

「動物園のパンダ感覚なの?」

「じゃあ、せっかくだから家庭科実践編もやってみましょうか」

 竹之内が西田の方を向く。
「西田先生、ちょっと実験やってもいいですか? 宏紀くんに負担はかかりませんけども
」 
「さあ……いいんじゃないですか?」 

竹之内は家庭科準備室からタオルを持ってくると家庭科室の机の上にひき、その上に宏紀くんを横たえた。
「バビンスキー反射ってこないだやったわよね」 

 あどけない顔で仰向けに転がる宏紀くんを覗き込む頭が五つ。竹之内、遊莉、西田、柚葉、晴。竹之内が静かに言った。

「それでは晴、質問です。バビンスキー反射の見方は?」

「かかと押すんでしたっけ」 

「正解。ゆず、反応はどうなるか覚えてる?」
「えーと、腕がビクッとします」 

「腕が動くのはモロー反射。バビンスキー反射はかかとを押すと足の親指だけ曲げてあとは開くのよ。モロー反射は大きな音に反応するの」

 遊莉が肘で小突いた。

「ゆず、テスト出るって」

「頑張ります……」

「出るとは言ってないわよ」

 竹之内はクールに言うと、宏紀くんの足の裏に触れた。

「かかとからつま先に向かって撫でます。よく見ててね」

  竹之内はかかとから小指に向かって親指を滑らせた。一瞬だがぐっと親指が曲がり、残りの指は驚いたように開いた。

「おー!」
「なった!」

「弟もこうだったのかなあ」
 柚葉はすぐに西田に水を向けた。
「西田さんもやってみます?」
「……」
 西田は一瞬戸惑った顔をしてから、実験物でも触るかのように恐る恐る甥っ子のかかとに触れ、つま先へと滑らせた 。同じように親指が曲がり、他の指は開いた。 
「おお」
 柚葉の目には西田は幾分感動したように見えた。顔からは全く読み取れないが。 もう一度足を押した。
「なかなか」
「まあ神経反射ですからね、みんなやるんですけど」
 竹之内の話を聞いているのかいないのか、西田は宏紀くんから一向に離れようとしない。
「教えると男の人とかよく面白がってやるんですよね」
 西田は無言のまま甥っ子のかかとを何度も押してはバビンスキー反射を見ている。柚葉は小声で晴に囁いた。
「西田さん、あの顔絶対面白がってるよ」
「そうなの?」
「うん。目がマジだ」
 いつもの無表情の中、目だけが好奇心でキラキラしているのが柚葉にはわかる。晴が囁き返す。
「……西田センセって、変だよね?」
「何を今更。数学やってる人にまともな人間がいるわけないじゃない」
「西田さん、そろそろ――」
 竹之内が止めるより早くあの絶叫が起こった。

 ぷぎゃああああああああ

「!?」
 西田が驚いて大きく目を見開き、竹之内がため息をつく。
「だから言わんこっちゃない……」

  予鈴が鳴ったのもいいことに四人は家庭科室から追い出された。案の定、西田の背がいつもよりしょんぼり気味だった。

 

***

 

 柚葉がいつものように数学のノートと筆記具を持って数学科準備室を訪ねると、西田が座ったまま宏紀くんを抱きかかえていた。幾分手つきは危なっかしいが、竹之内先生あたりにちゃんと習ったんだろうな、ということはわかった。それにしても子守り姿が全く似合っていなかった。なんだか今ならそんなに恐怖心もないような気がして、柚葉は持っていたノートと筆記具を手近な机に置いた。

「抱っこしてもいいですか?」
「いいんじゃない?」
 相変わらずの反応にずっこけそうになる柚葉。何でそう、テキトーな疑問形で答えるかなこの人は。 柚葉は西田と同じくらい慣れない手つきで宏紀くんを抱き上げた。
「へぇ……」
 初めての不思議な感覚に浸っていると、ぷにぷにの手でぺちん、と口を叩かれた。
「むぎゃ」
 その反応が面白かったのか、柚葉は何度もぺちぺち叩かれた。柚葉が顔をしかめる度に楽しそうに笑う宏紀くん。きっと私のことを押す度に変わる変顔マシンだと思ってるに違いない、と柚葉がされるがままになって眉間に皺を寄せていると、西田がクスッと笑った。あの西田が、笑った。
 びっくりして思わずそっちを見つめていると、口の端で柔らかに笑ったまま西田が言った。
「他人を困らせて喜ぶところがトモそっくり。最悪」
 最悪、なんて言っておきながら、その口調はまんざら憂鬱でもなさそうで、むしろ嬉しそうだった。どんだけひねくれた愛情表現するんだよこの兄弟は。
 そのまなざしにふと思って、言葉がするりと口をついて出た。
「……西田さんは結婚しないんですか?」
 西田の口の端に残っていた柔らかさが霧散した。なかなかハードな質問をしたことに言ってから気づき、柚葉は慌てて付け足す。
「……もしかして今のセクハラにあたります?」
「かもね」
「……」
 平静を装いつつもセ氏四度に冷えた口調。しまった地雷踏んだ、と思ったがもう遅い。 西田はしばらく黙っていたが、半ば愚痴るようにこう呟いた。
「結婚つーか、そもそも恋愛興味ないし。そんな余裕もないし」
 柚葉はしばらくその発言を黙って反芻していた。これは榎さんへの僻み? 負け惜しみ? それとも西田さん自身の嘆き?
 そんなことを考えている間に両腕が重さに耐えられなくなってきていた。視線を腕の中に戻すと、
「……寝られた」
 柚葉は途方に暮れた。
「どうすりゃいいんですか西田さーん」
「さあ」
「さあって……」
 砂よりも味のない返答に途方に暮れていると、西田の眉が少し下がって、あのいつもの「しょぼん(´・ω・`)」の顔になる。低い声でボソッと言った。
「俺が抱っこすると泣くし」
そりゃさっき西田さんが散々バビンスキーやってトラウマになったからでしょうに」
 ああ、と目を見開き腑に落ちた様子。
「なるほど、そうか」
「そうか、じゃないですよ!」
 怒ってみてもなしのつぶてだ。ほんと数学科の人間って感性がずれている、と呆れる柚葉。
「一日ずっと遊んでたから疲れたのかもな」
 そう言うと、西田は無言で柚葉の腕から赤ん坊を抱き取り、窓辺へと歩いていった。
 あやしているつもりなのか、西田はゆっくり身体を左右に揺らしている。が、柚葉にしてみればその姿はあやしている母親と言うよりも、なんとなくぶらぶら揺れているザトウムシ、もしくは幽霊のそれに見えた。 そして、そのまだぎこちない背中を見て、柚葉は何となく安堵してしまった。
「……やっぱ似合わない。よかった」
 そう柚葉が笑いをこらえていると西田が怪訝そうにこっちを振り返った。
「よかった? 何が?」
「秘密です」
 とっさにそう口にしたが柚葉も自分ではよくわからなかった。何で? と首を傾げ問いかける視線に柚葉はにへへ、と笑ってごまかすしかなかった。

***

 西田がデスクでパソコン画面をじっと見つめていると、いつもの足音がして、ドアが開いた。
「おう、ヨッシー。何とかなった?」

「何とかなった? じゃねぇよ」
 殺意を込めて榎を睨む西田。が、本人には全く効いていない。
「悪ぃ悪ぃ、助かった。ありがとな。で、宏紀は?」
 西田はソファーの上に目をやった。甥っ子は気持ち良さそうにすぴすぴ寝息を立てている。
「散々女子高生に遊ばれて疲れたらしい」
「だろうな。うんうん」
 そう頷くと、友紀は持っていた紙袋を由博の目の前にとん、と置いた。
「はいよ」
「何これ」
「本日のシッター料」
 何だろう、と思って紙袋を覗き込むと、贈答用のラッピングをされたお菓子の箱らしきものが一つ入っている。
「京都の金平糖屋で買ってきた。俺が言うのもアレだが、少なくともお前が思ってるよりは値の張る代物だぞ」
 包装をまだ解いていないのにわずかに砂糖の甘い香りがする。かなり立派な店で買ったようだ。ちゃらんぽらんでいい加減に見えても、こういうところは榎なりにちゃんと気を遣っているのがよくわかる
 袋から顔を上げた西田は無表情を装いつつも、目は爛々としていた。
「もらっていいのか?」
「いらねぇなら返せ。お陰で金欠だ」
「じゃあありがたくもらう」
 こういうやりとりもジョークのうちだ。相変わらず愛情表現のややこしい二人である。
「竹之内センセとかにも手伝ってもらった?」
「うん――まさかトモ、そのつもりで?」
 榎がそーっと視線を外した。まあ、とか、うん、とか言って適当にお茶を濁そうとするあたり、確信犯のようだ。
「女子高生に任せたら意外となんとかなるしな」
「お前な……」
「女子高生って並の人よりは頼りになるし、ヤバそうになる前に必ず誰か止めるだろ。お前とか、竹之内センセとか」
「……」
 開き直りにも程がある。
「女子高生にもいい勉強になったんじゃないの? ま、子育ての勉強したところで女子高OGの離婚率は五十パーセントだけどな。はっはっは」
 普通ならここで何か言い返すような西田だったが、今日はじっと黙って何かを考えている風だった。

「どうした? 疲れた?」
「疲れてはいるけど……」
 西田はこう静かに続けた。
「俺、赤ちゃん抱いてるの似合わないんだろうな」
「あ?」
 きょとんとした目で見つめられ、西田は少しばつが悪かった。
「……やっぱ何でもない」
 榎がニヤリと笑う。
「子供欲しくなったか?」
「別に……」
 とびきり不機嫌な声で返す西田。榎が眼鏡を外し、わざとらしくニヤリと笑った。
「たまには人間にも浮気しろよ。数字と宇宙ばっか見てると、自分のこと見えなくなくなるぞ」
 お決まりの説教にうんざりして、西田は少し眉を寄せる。
「……ちょっと何言ってるかわかんないんだけど」
「行間を読めよー。せっかく俺が文学的オブラートに包みつつ可愛い弟に人生のアドバイスをだな」
「余計なお世話。あとこの年にもなって可愛い弟とか、キモい」
「ちぇー、反抗期め」
 ソファーの方からむずがるような声がした。
「あ、起きちゃったか」 
 榎はすぐさまソファーに寄ると、さすが父親慣れた手つきで抱き上げた。榎が「今日はごめんねー、おうち帰ろうねー」とあやすと、眠そうな目をこすりながら「む」とむくれただけで、泣き出すことはしなかった。 
 宏紀と目が合った。榎の肩に隠れつつ、上目遣いにこっちを見ている。 宏紀は何か言いたそうな顔をしたまま、そして西田はそれを静かに待ったまま、二人はしばらく見つめ合っていた。その二人の顔を交互に見て榎が言う。 
「お前らテレパシーでもしてんの?」 
「いや、別に」 
 それが合図だったかのように、宏紀はぷいっとそっぽを向き父親の肩に顔をうずめた。西田からはすっかり興味が失せたらしく、もう見向きもしない。 
「ほんと助かった。家まで送ろうか?」 
「いや、本屋寄るつもりだから先帰って」 
「そ。じゃあな」 
「ん」 
 バタン、とドアが閉まると、急に部屋の中が少し寒くなったような気がした。誰もいなくなった数学科準備室。冷めきったインスタントコーヒー。ホコリを被った『ユークリッド幾何学』。 いつも通りの何でもない風景なのに、いつもと違って見えるのはなぜなんだろうな、と西田は思った。
 パソコンの電源を落とし、USBを引き抜きズボンのポケットに無造作に突っ込む。ジャケットの袖に腕を通すと、ふわり、と乳酸菌の甘酸っぱい香りがした。 
(ああ……子供の匂い、か) 
 その時西田は自分の頬がわずかに緩んでいたことに気が付かなかった。
(俺、どんな子供だったんだろうな) 
 西田は自分の鞄を肩にかけると、パチン、と電気を消した。

 

おわり